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ブリタニカ草稿(最終稿)第14節 [読解シリーズ]

【普遍的哲学としての現象学】

○根底から、自己の学問により正当化される普遍的学問が、プラトン・デカルト的な意味での学問であり、それが根源的な哲学である

○厳密な体系として進行してきた現象学は、純正な認識全てを包括しようとする根源的な哲学である

○それは、第一哲学としての本質学(形相的現象学、普遍的存在論)と、第二哲学としての事実学に区別される

○第二哲学とは、事実全てについての学問であり、超越論的な意味での間主観性についての学問である

○第一哲学は、第二哲学のための方法的総体であり、第二哲学を基礎づけるときは、第一哲学に立ち戻る


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ブリタニカ草稿(最終稿)第13節 [読解シリーズ]

【事実学の基礎づけと経験についての現象学】

○「経験的な事実」に関する学問でも、自己と関係するものとして、超越論的に解明していく方法は有効である

○実証的、経験的な科学は、アプリオリな学問による方法的な基礎付けを必要とする

○全ての経験科学について、成立基盤の危機から解放されるためには、現象学的な基礎づけが要求される

○事実についての純正な学問の形態は、「現象学的な事実学」である

○それは、形相的現象学(本質学)を基礎とする、事実的な超越論的間主観性についての学問(事実が経験的、間主観的に証示されていく構造の解明)である

○従って、形相的現象学の後から、事実的現象学の理念が理解され正当化される

○実証科学が形相的現象学により基礎づけられるなら、事実的現象学は実証科学と同一である

「本質」とは、理念であり、知であり、無時間的であり、永遠である。
「事実」とは、偶然であり、個別性であり、時間の中にあり変化する、主に経験的なものである。


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ブリタニカ草稿(最終稿)第12節 [読解シリーズ]

【科学の成立基盤の危機】

○現象学が実証的存在論を含むというのは、存在というのは超越論的に構成されるものとして形成体となるということである

○それゆえ、構成される形態と同時に、形成体の現れ方、その確証の仕方や段階、それに属する習慣性が与えられている

○それにより、存在がもつアプリオリなものが理解され、その主観的な確定方法も理解される

○それゆえ、現象学により基礎づけられる学科にとって「パラドックス」や「成立基盤の危機」はありえない

○学問は、根源的な現象学的基礎づけのみが純正な学問に変えることができる

○これにより学問は、実証的で独断的な学問であることをやめ、普遍的な存在論である現象学の一つの部門になる


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ブリタニカ草稿(最終稿)第11節 [読解シリーズ]

【存在論としての超越論的現象学】

○超越論的現象学は、アプリオリな学問全てを体系的に統一する

○ライプニッツの理想を普遍的な存在論として実現する

○現象学は、共同体の中の全存在者についてのアプリオリな学問である

○この学問は、存在者を、志向的に構成されるものとして扱う

○また超越論的主観性そのものの存在についても扱う

○従って、現象学は、真に普遍的な存在論である

○実証的な存在論についても、志向的な構成として根源から基礎づける


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ブリタニカ草稿(最終稿)第16節 [読解シリーズ]

【全ての哲学的対立の解消】

○昔から哲学的な立場については曖昧な対立があるが、それは論証を積み重ねていく弁証法や弱々しい妥協ではなく、直観から抽象的な高みへと進む現象学により解消される

○その対立とは、合理論と経験論の対立、相対主義と絶対主義の対立、主観主義と客観主義の対立、存在論と超越論の対立、心理学主義と反心理学主義の対立、実証主義と形而上学の対立、目的論的な世界理解と因果論的な世界理解の対立などである

○こうした対立は、正当な動機もあるが、中途半端さや一面的な絶対化もなされている

○主観主義は「超越論的な主観主義」によってのみ克服される

○超越論的な形態を理解すると、主観主義は客観主義を取り込む

○いわゆる客観主義は、超越論的な形態を理解しないために、主観と分離した不当な「客観」を設定するが、それは「超越論的な主観主義」においては、経験により調和的に与えられる客観性である

○相対主義は「現象学的な相対主義」によってのみ克服される

○現象学においては、客観的な存在は、超越論的に構成された存在として、自我に対して相対的なものである

いわゆる相対主義は、超越論的な形態を理解しないため矛盾に陥っている。

○また、自分自身も、超越論的に構成されたものとして、自我に対して相対的である

「私」や「自分」や「私の身体」や「私の心理」も超越論的に構成されたものとして、自我に対して相関的、相対的である。

○経験論や経験主義は、現象学的な経験の理解により克服される

○現象学では、経験論者の狭い意味での経験に代えて、原的に与える直観という経験を中心に置く

○この直観は、本質直観や明証性により、現象学的に正当化される

○本質学としての現象学は、合理主義的でもある

○しかしそれは、独断的な合理主義ではなく、超越論的主観性の本質研究による「自我と意識された対象性」の研究による合理主義のことである

現象学的な合理主義ではなく、よくある独断的で飛躍した合理主義、進歩主義は危うい。

○これらに絡み合う他の対立についても同様である

一切の哲学的対立とは、超越論的な形態を理解しないがゆえの対立である。

○「存在」とは、超越論的主観によって構成されたものであり、その構成する働きに引き戻すことは、目的論としての世界に対する考察を開いておくことである

○現象学は、ギリシャ哲学からの純粋な哲学的成果である

○デカルトから合理論、経験論、カントとドイツ観念論を経て、現在に生きる

○この成果は、「哲学的問題を、具体的に手中に収めながら片づけていく作業」自体を指 している

○しかし、この道程は、無限の道程である

○それゆえ、現象学は、現象学者が自分のために哲学的体系の理想を手に入れるという欲望を捨てることを要求し、他者との共同性において謙虚に働くものとして、永遠哲学のために生きるように要求する

フッサールの哲学に対する理想はかなり高く、周囲には誰もいない。
彼がときどき語る意味での「現象学者」とは今まで彼だけである。


ブリタニカ草稿(最終稿)第15節 [読解シリーズ]

【現象学の「究極的」問題】

○全ての理性的な問題は、現象学の問題である

○伝統的な哲学の問題も、超越論的な経験の構造、本質直観から出発することで解決の道が得られる

○現象学により、自己と関係するものは、超越論的な構造にあるものとして理解される

「世界」や「事物」や「他者」や「私の身体」や「私の心理」なども全て、超越論的な構造(○○についての意識、意識によって構成されたもの、自我と相対的)として理解される。

○現象学により、その構造に含まれる規範も認識でき、それを理解することで現実的な「生の目的、傾向」も認識できる

○現象学は「普遍的な理性」を求めるため、超越論的な構造をもつ自己自身を洞察する

○それは「無限の彼方の普遍的な理念」を求めることであり、「永遠の真理」と「純正な人間性の理念」に向かう努力に奉仕することである

○自己の本質構造を認識することにより、現実的な生に含まれる「普遍的な理念」も洞察でき、実践的に実現していく

「生の目的、傾向」とは、人間に本来備わった意識の本質的な傾向として示されるものである。それは、本質直観により自己洞察され、また他者とも共通にもつ人間の本質構造、普遍的な規範として洞察される。それを認識することで、現実の中での「普遍的な理念」も認識でき、「生の目的」も実践できる、とフッサールは言う。

要するに、「人間がアプリオリにもつ本質傾向」を理解することで、その指し示す目的、傾向を理解し、実践的に実現していく、そして、その傾向自体も無限に洞察していく、ということである。

目的論に関するフッサールの考えは、次の言葉がよく表している。

「理性とは、人格的な活動と習慣の中で生きている…人間の特性である」

「この生活は、人格的なものとして絶えず発展を目指す…絶えざる生成である」

「哲学とは、理性主義以外の何ものでもないが、…絶えざる自己啓発の運動のうちにある理性そのものである」

「人類とは、おのれを理性的なものとして理解するもののことである」

「人類は理性的であろうと意志することによってのみ理性的たりえるということ、それは理性へ向かう生活と努力が果てしのないものだということを意味するということ、理性とは、人間としての人間がその内奥からして意志するもの、それだけが人間の心を鎮め、「至福」に至らしめるものだということ、理性には「理論的」とか「実践的」とか「審美的」など区別はないということ、人間存在とは、目的論的、当為的存在であり、全ての自我的行為や意図のうちにこの目的論が支配しているということ、人類は、自己理解により全てのもののうちに必当然的な目的を認めるということ、究極的な自己理解によるこの認識は、アプリオリな原理に従う自己理解、つまり哲学というかたちでの自己理解以外のいかなる形態をもとることはないということ、こういったことを理解しているということである」
(以上、危機 第73節)

※第73節は草稿の部分である

○目的論、倫理学、歴史哲学の問題も現象学の枠内にある

○そして、意味ある問題の全てが、超越論的な精神性の問題として現象学に含まれている

倫理学や歴史哲学も、(超越論的な)精神性の構造として理解される。しかし、倫理や歴史に関して、経験的な構造や精神化していく構造、共同的、文化的なものの理解を、人間に内在する本質構造として解析するという難題なテーマである。

この「目的論、倫理学、歴史哲学」というのは、対象的な意味、目標ということではない。ある正しい目的の持ち方、倫理観の持ち方、歴史観を持ち方、ということではない。

我々は「自我構造-と相関的な-そのつどの意味」というように、そのつど対象化された意味(目的、倫理、歴史)をもち、それを追求することもあるが、その普遍性、正当性、究極意味を求めても相対主義、ニヒリズムに陥るだけである。自我構造に内在する本質傾向としての「目的論、倫理学、歴史哲学」を分析するのでなければならない。

例えば、「歴史的なもの」もそのつど私の中で構成、再構成され、統一的なものとして記憶、精神化されていくが、その精神化の本質構造を洞察し、その進展のプロセスを理解することがメインで、正しい歴史観のもち方などということではない。

目的論などに見られるフッサールの(究極的にも見える)考えに対して、肯定するにせよ批判するにせよ安易な解釈はその本質を見失う。いずれにしても難しいテーマである。


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