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不完全性定理と直観主義 (4/4) [数学系]

§ 超越論的認識論

直観主義系統の人のベースには、超越論的(観念論的、構成的)な認識論がある。

この「哲学性」が受け入れがたさの一因となり、認識論は記号のようにわかりやすく目に見える「対象領域」ではないので、理解が得られにくい。

自分の「認識の働き」を認識するということは、一見何を行っているのかよくわからない。

しかし、人は、例えば「記憶」「想像」「知覚(視覚、聴覚、触覚など)」を分類している。それは「目に見える」ものではないが、洞察している。

「意識の働きの本質」など捉えられるわけがない、という人がいれば「記憶では~・・・」ということも言えないはずである。それは意識の働きを本質区別している。触覚と聴覚を区別できない人はいなく、深い部分は本質洞察力、判断力、分析力の問題である。

「本当は誰も、「理念」や「本質」を見ているのであり、思考の際にはそれらのものを操作し、本質判断を遂行している。それでいて、自分たちの認識論的な立場から、解釈上除去しているだけなのである」(フッサール)

「感情…」「心理…」「経験…」「感性…」「芸術…」これらの言葉も本質判断であり、理性的判断である。しかし、(どちらかというような)二元論的思考にとらわれていると、解釈上で理性的判断していることが除去されることが多い。理性的判断というのはそれらを否定しているわけではない。

ある言明を正当であると主張する場合、人はその判断根拠をもっている。言葉に「根拠などない」という人も、「根拠などない」という言葉に対する確信は持っている。もし、その確信もなければ「自らの言明はデタラメ」あるいは「いい加減」と自分で言っていることになる。(日常生活ではなく学的な意味である)

アプリオリな本質論とは、「いかなる」思想の人でも実はそれに従っている、ということである。誰かどこかにあるのでなく、それぞれの中にあり、重ねるのでなく、知識一切捨てても残りから(洞察として)見えるものである。本当は何もわかってないということや愚かさも見えるのである。

個々人はある時間、地域、個の実存として生き、それぞれ(60億人いれば60億の)偶然、固有、ある限定された問題を抱える。そこには様々な考えが交錯するし、個々人がどのように生きるかというのは固有の問題が大きく関係する。

本質論というのは普遍として言える部分だけであり、それ以外を排除している訳でなく、単に(根本哲理は)それでないと「誰かに都合の良い、思いこみの、ある事例を捉えた論」にしかならなく、論理として矛盾するというだけである。(誤解されやすい言葉であるが)希望も絶望もそもそも関係ない。

超越論的な認識論に深い理解を示すのは「数学者」か「数学系哲学者」の人である。しかし「数学界」でも「観念論派(構成派)」と「実在論派」に分かれ、前者は少数派である。そして科学・技術の先進化、大規模化、専門化と共に哲学から離れていく。

§ 構成的数学

直観主義系統の人でも考えは多少異なる。直観主義を含んだ大枠として構成主義、構成的数学がある。ポアンカレ、ワイルなどの可述主義などもこの範囲である。

構成主義派は、数学的対象を人の構成、直観により完全に与えられる限りのみ認める。

実在論派は、数学的対象を人の構成、直観から独立に存在すると考える。

ポアンカレの言うように、両者はほとんど分かり合えない。

非構成的な方法というのは「全体は見えている」「全体はある」と仮定して行われる。しかし、その全体の中で無限、無限悪循環があると、「一方でなければ、他方」という排中律の無条件な使用は問題を生む。「見えてない」ものを「見えた」とすると、「問い方により」問題が発生する。

つまり「全体」は内部に「無限」があると、無条件には「見える」と仮定してはいけない。

「見える」というのは「終わりが見える」ということであるが、無限というのは「終わりなく継続する」ことを意味し、「対象値の概念」ではなく「ある方向への継続を示す概念」である。無限は、「ステップの継続の無限」「時間的な無限」を仮定している。

(従って 「 ∞ + 1 = ? 」 「 ∞ - ∞ = ? 」 という問いは 「 ア + 1 = ? 」 と同様ナンセンスである)

構成的数学では、証明を行うときには、解の「存在」を保証し、解を求める手段を具体的に提示する。

構成的な確実な対象や推理だけを用いて結論を導くのでパラドックスは生じない。

もしパラドックスが現れるなら、その直観主義-構成主義は不備があると考えてよい。直観的明証から構成的に理念存在を確証していく構成的数学においてパラドックスとは無縁(なはず)である。

哲学的側面の中心はポアンカレとブラウワーであり、直観主義を具体的に明確に打ちだしたのはブラウワーである。

直観主義は人間的数学であると言われる。

構成的数学は構成的現象学と平行し、構成的数学世界は構成的現象世界と平行する。

§ 数学と哲学

普遍哲学はアプリオリなものの発見であるが、数学の多くの領域はアプリオリなものとは言えない。

アプリオリな領域は創造的なものではないが、数学はアイデアを合理的に積み重ねていくものであり、意識の構造を解明すれば全部見えるものでなく、拡張性のあるものである。

数学には厳密性が求められるが、それはどういう意味での「厳密性」か、ということが問題になる。ある意味で「思想、志向的」な問題であれば、幅があってもよいことになる。

数学は基礎づけ問題で悩まされていないのだから、基礎づけなどいらないのではないか?という疑問もあるが、これは微妙である。時代の多数決が正となり、悩んでいないだけかも知れない。

数学者は数学を「何でもあり」の拡張性をもつとは見なしていないはずである。そこには自由拡張は認めても、矛盾した拡張を認めないという「規制、合理則」が働いているはずである。

基礎づけはあくまでその「合理則」の明確化でしかなく、恐らくそれがないと人はいつまでもある「違和感」を抱き続ける。

矛盾拡張した数学は認められない。何故なら、矛盾拡張した数学を正当な論理で追求しても結局最後は矛盾しか導かれないからである。そして応用ができない。

矛盾追求は(頭が明晰なほど狂気を生み)苦しいものとなる。戻ってこれない場所へ行ってもなかなか気づかなく、(臨界を越えると体が破壊されはじめ)体の回復が絶望的になってもわからない。その果ては何もないが、それは果てにいかないとわからない。体は何かを告げるシステムになっているが、本当に納得しないと僅かな体力でも考え始める。

結論にパラドックスがある問題は、ほぼ前提に問題があると考えていい。既存の数学の常識においてパラドックスが発生した場合、その常識は疑わしい。

不完全性定理はパラドックスを示すものではない。不完全性定理が指摘するのは、形式主義的-無矛盾性という目標に対してであり、非構成的な方法の拡大解釈に対する警鐘である。

当然、不完全性定理で「数学、論理が死ぬ」なら、不完全性定理自身も「数学、論理」なので、不完全性定理自体が死ぬことになる。

記号規則を根拠とする試みというのは循環論になり、また同様に、言語規則を根拠とする試みも循環論になる。そして、必然的に相対主義~懐疑主義的になる。

§ その後の直観主義

以下は、様々な文章からの抜粋的なものである。

直観主義は直観主義論理としてハイティングにより形式的に体系化されている。

ゲーデルやその他の人により、算術での古典数学の標準的形式体系の各定理は、直観主義論理のハイティングの形式体系の定理へ翻訳された。つまり、古典論理は直観主義論理に組み込めることが証明された。

直観主義論理はBHK解釈(Brouwer, Heyting, Kolmogorov)として整備されたものが標準となっている。主に、ハイティングの流れにある。

ブラウワー直観主義と排中律排除の形式化に重きを置いたハイティング標準の直観主義論理では意図するものが異なっている。直観主義論理はブラウワーの哲学性が大きく削られ、数学的形式性が強調されている。しかし、それにより扱いやすいものになっている。

ブラウワー直観主義と直観主義論理(BHK解釈)の違いは、ブラウワーの直観主義数学が具体的にどのように行われ、それと直観主義論理で行った場合との違いを検討すると見えてくるのかも知れない。

それ以外にも様々な構成主義の立場、コンピュータ(計算機科学)系の立場などもあり、怪しいものもある。

直観主義は一つの理想主義であり、明瞭で強力なものであるが、それを数学全体に適用するとなると、様々な数学の改訂を要求する。

というのが常識的であるが、近年の研究ではそれはかなりの誤解であり、古典数学も成果を捨てる必要は全くなく、直観主義-構成主義はコンピュータ系を中心に見直されている。

コンピュータ系で直観主義が復活してきたのは偶然ではなく、数学的矛盾というものがいかに発生するのか厳密な具体的数学として示すのがコンピュータである。コンピュータは矛盾があれば動かないので、本来の数学的矛盾とは何かを教え、机上チェックから実行チェックに移す。

具体的数学により数学の基礎問題が露呈されることは、ポアンカレによって既に予言されている。それは必然の流れだからである。

例えば、コンピュータでの実数(計算)の扱いや無限の概念を考えるだけでも、多くの示唆が得られるはずである。コンピュータは数学の拡張過程を1から作り上げ、実装しないといけないので数学的原理とは何かについてよく教える。

「実装できない」=「矛盾」ではないが、「矛盾」があれば「実装できない」はずである。コンピュータ上の数学が正という意味では必ずしもない。

古典論理と直観主義論理は相互に変換可能なことはゲーデル~コンピュータ系により論証されている。「古典論理+直観主義論理」でいいなら、ワイルの懸念は払拭されることになるが・・・

ワイルの懸念が古典論理、古典数学の簡単な原則が適用できないというならば、矛盾がない場合、古典論理=直観主義論理(相互変換可能)なのでこの懸念は解消されることになる。

非構成的な方法(主に背理法)でも、矛盾となる場合と、矛盾とならない場合がある。古典数学では、矛盾ではないから特に明確化せずに非構成的な方法を使用してきた。しかし、パラドックスが発生するような分野が現れだしたときにその基礎が問われることになる。

直観主義は数学から矛盾、パラドックスを排除する方法を明確化した。しかし、非構成的な方法でも、矛盾がないならば、構成的な方法に変換可能なのであり(古典数学での)非構成的な方法も排除する必要はない。問題は、矛盾が発生する非構成的な方法である。

以上の考えが正当ならば、問題は「一部」となり、それを改善すると数学全体は頑強となるはずである。

古典論理、BHK解釈、カリー=ハワード同型対応、これらの関係を解きほぐすと、そのことがよくわかるのかも知れない。

そして、様々な領域において、事態は更に(必然的に)進行している(はずである)。主に理系の多数の先進分野は哲学と密接に関連するが、独自展開でありほとんど哲学の影響はみられない。

直観主義-構成主義も、ある程度完成された姿でないと理解は得られず、数学にとって利用できるものでないと「哲学的」ということで混乱を与えるのかもしれない。(恐らく、ブラウワー直観主義をもう少し拡げた形での構成的数学が基本になると思われる)

これらについては私の情報量、実理解の範疇を越え、恐らくこうだろうという話である。表面からはわからないことも多く、皮相的でなく本来具体的なものでなければいけない。

しかし、枝葉は多数あっても、根元から幹は見えているはずである。垣間見える情報は必然の流れを示唆しているからである。


不完全性定理と直観主義 (3/4) [数学系]

§ 例1

例えば、 5 という数がある。

特に何も明記されていなければ、暗黙の定義で10進数である。

2進数では 101 であり、漢字では 五 、英語では five である。

これらは、全て同じ数学的理念対象を指している。

それを [5] と表してみる。

( [ ] は数学的理念対象、数学的事態を指す。特に記号の説明がなければ暗黙のものを指すとする。)

同じ数学的理念対象 [5] であるから、記述表記(記号)は相互に変換(翻訳)可能であり、何が誤りで何が正しい変換か理解可能である。

5 + 10 = 15

暗黙の算術記号定義で、+ は「加法」を示し = は「左右等しい」ことを示す。

五に十を足すと十五になる

と書いても、「数学的」には同じ意味である。

つまり、 [5] [+] [10] [=] [15] という対象的理念の連続であり、[5 + 10 = 15] という数学的事態であることを意味している。

5 + 10 = 15 というのは表示形式であり、「一義的」に数学的事態も指示している。

5 や + の意味を知らない人は、表示形式を見ても、数学的事態は理解できない。

勿論 + を別の意味として定義すれば、別の答えとなる。意味が定義できなければ、解答不能である。

「 + 」は「加法」と説明されるが、これはあまりよい説明ではない。同じ事を別の表現で表しただけだからである。「 + 」や「加法」が何を意味するのかというよりも、数学的操作として何を行うのか、人は知っているということである。

「 + 」は当たり前すぎてわかりにくいが、「 lim 」や「 log 」や「 Σ 」といった記号を初めて見た場合、それを理解することがどういうことか考えればいい。

人は、それらの記号を「言語意味」として理解をしているのではなく、「数学的操作」として「何を行うのか」わかって初めて「理解」となる。

コンピュータで例えると、コンピュータ上のデータは全て 2 進数 (1 bit) の on, off でメモリやハードディスク上に格納されている。処理される単位は 1 byte (= 8 bit)なので、

[5] というのは、 1 byte では、00000101 と格納されている。

これを、10進数で表示すると 5 であり、漢字では 五 、英語では five となる。

[ ] はコンピュータ上では内部データ、機械的ロジックの部分に当たる、と考えればいい。

「1+1=2は正しいか?」という問いは、あまり意味はない。

暗黙(通常の10進数での算数、数論)の定義上では正しい、というだけであり、定義や意味する単位を変えれば、正しいとはいえない(正しい場合もある)、というだけである。

自然数が1の加算で定義されるなら、「1+1=2」はその範囲内であり、自然数の加算や乗算は全て自然数の定義内での演繹である。

数学的命題の正当性は、対象とする数学的事態の合理性で判断しているということである。

上の例では、「記号」と「数学的事態」は1:1に対応している。つまり「記号」を見れば「数学的事態」は確定、認識できる。しかし、他の命題を参照している場合などは、1命題の「記号」を見ても、必ずしも「数学的事態」は確定されない。

他の命題を参照している場合でも、悪循環とならないような場合には「数学的事態」は確定できる。しかし、事態に矛盾があるかどうかは個々の命題だけでは判断できない。

§ 例2

幾何学のある証明問題があるとする。

それは、文章で書かれているとしても、実際に解くときには、幾何図形を頭で描いたり、ノートに書きながらそれを解いていく。幾何図形に対する直観的なもの、推理的なものなしにそれを解くことは難しい。

問題の意味を理解するために言語が用いられていたとしても、実際に幾何図形を描くことができれば、後は、言語や記号を特に用いなくても、幾何図形の操作だけで(頭の中だけでも)解答できる場合は多い。証明するときには、後で、言語や記号などの説明を用いるとしてもである。

逆に言うと、幾何学の問題は「幾何学的直観」がなければ、解答まで導くことは極めて難しいのであり、よく言われるように、ヒルベルトの「幾何学基礎論」も「直観」なしに理解することはできない。

直観的推理なしの幾何学というのは人間には理解しがたく、どこに向かっているかよくわからないはずである。

数学する人が目的としているのは、対象とする数学的事態、幾何学的事態の合理性、合目的性であり、それは構文的、形式的なものだけの合理性ではない。

「数学的推論に随伴する言語の規則性を、数学的推論そのものに帰するべきではない」

「数学的言語、特に論理は、それ自体では、決して数学的事態を演繹することはできない」
(ブラウワー)

テレビ番組で、図形を操作するような幾何学の問題を公理から導いている人はいない。幾何学的事態を理解できる範囲で言葉の意味を知っていれば十分であり、公理を特に知らなかったり、あやふやでも解答を導くことはできる。

解答への道は、ほとんど直観的な推理で行われているのであり、結論が出た後での「説明」もアバウトでバラバラなこともある。しかし、それによって解答の正確さが損なわれるわけではない。構文的、手続き的な説明の正しさが問題になっているのではなく、目的への推論の正しさが問題になっているのである。

§ 例3

「ここに携帯電話がある」という言葉について考える。

正面を向いていれば「真」の場合でも、横を向けば「真」とは言いにくくなり、後ろを向けば「偽」であり、隣の部屋へ行けば「偽」である。

つまり、記号や言語規則からの意味「だけ」で人は「言葉」の判断をしている訳ではない。

「ここ」という言葉は直観的にある範囲を指示し、その周囲は曖昧である。「ここ」に適合する範囲で「携帯電話」があると「充実的な合致」意識が与えられる。

現実においては、「言語」を通じて人は「ある事態の思念」をしているのであり、単なる言語意味だけでなく、何らかの「意識の働き、知覚、一般意味と対象との関係、意味の充実的な合致など」を関係併せて(総合的)判断の根拠としている。

§ 形式主義と直観主義

「数学では特に、私たちが考察するのは、採用した把握の仕方に従って、その形が直観的に明晰で認知可能な、具体的な記号それ自身である」(ヒルベルト)

形式主義では、「記号」という「伝達形式的」「手続き的」「規則的」な「目に付くもの」を中心に数学を考えている。

しかし、それは数学の一側面である。数学で中心となるのは「対象的」「事態的」なものであり、それに向けての推論である。

「直観主義の数学が、時間の働きの知覚にその起源をもつような、心の本質的に無言語的な活動であることを認識すること」(ブラウワー)

「直観主義数学者にとって、数学は人間精神の産物である。彼は日常言語も形式主義的言語も伝達のためだけに用いる。すなわち彼の数学思想を他人あるいは自分に追思考させるためである」(ハイティング)

幾何学などを考えればわかるように、数学的事態は無言語的な推論によっても成立する。

「数学的公理を規約により真とすることで、数学的直観や経験的帰納を除去することは不可能である」(ゲーデル)

公理を独立的に整備することも数学の一側面として重要である。ただ、形式主義の無矛盾性(命題、記号列による排中律が成立する体系)というのは、公理体系内で数学を演繹化、機械化する志向であるが、それは数学を逆方向に見ている。形式的無矛盾性を求めると、無矛盾になるようにしか公理を設定できない。

公理により、全推論パターンの排中律を成立させ矛盾命題を取り除かなくても、公理からの推論を矛盾のないように構築していけば問題はないのである。

公理と公理からの推論命題が矛盾なく「対象存在」を一義的に指示するような数学分野であれば、無矛盾性は成り立つかも知れない。(ここには「事態の無矛盾性」と「命題形式の無矛盾性」という二つの一致関係がある)

しかし、「メタ目線」で形式的無矛盾な公理枠、排中律体系を作ることが「どういう意味で」有用なのか考えなければならない。

「数学上の発見とは、既に知られた数学的事物を用いて新しい組み合わせを作ることではない。作りえる組み合わせは限りなく、その大多数は全然興味のないものだろう。発見するということは、有用な組み合わせをつくることにある。発見とは識別であり選択である」(ポアンカレ)

プログラミングの例で言うと、プログラム言語体系の整備は必然であるが、それは目的とする実行プログラムを豊かにするための整備である。言語体系からの自動化システムが目的とされているわけではない。

チェスや将棋において「人間」対「コンピュータ」の勝負がよく行われる。しかし、本当は「人間」対「機械をもった人間」であり、コンピュータは全て人間が作り、プログラムは人間が改良に改良を重ねたものである。

プログラムは「人間のプログラミング」+「機械的演繹」によって実行される。プログラミングは完全な自動化はできない。自動(学習)化しても自動(学習)化するプログラムが更に必要になる。コンピュータも人間の推論に支えられている。

「駒の動きを知ればチェスの指し方がわかるわけではない。論理によって与えられた材料を組み合わせる仕方はいくつもあって、我々はその中からあるものを選び出さなければならない。真の数学者は、この選択を巧みにやってのけるが、これはある正確な本能によって、何かは知らぬが更に奥深く隠れているある数学についてのおぼろげな知覚によって、導かれているがゆえである。この隠れた数学こそ築きあげられる建物に価値を与える」(ポアンカレ)


不完全性定理と直観主義 (2/4) [数学系]

§ 嘘つきのパラドックス

嘘つき、自己言及のパラドックスとして語られる命題は、

A: 「この文は偽」

という基本形を内包する。

「主語+否定判断」であり、更に主語はこの命題自身を指している。だから、代入すると「「主語+否定判断」+否定判断」となり、主語に対して否定判断と二重否定判断をもち矛盾命題となる。

形式的体系論(型の理論)により、A を論理式の形にすると、

B: ¬p  ← 1階の対象(論理式) p に対する否定

となる。そして p は B 自身を指している。

従って、代入すると、

¬(¬p)  ← 2階の対象(論理式) p に対する二重否定

で、p に対して「否定 かつ 二重否定」となる。

(数学的に考えると)再帰性があるので p への代入は無限に繰り返される。

ポイントは1階と2階以上(高階)の「同一対象 p」に対しての判断の違いであり、その悪循環構造、事態矛盾である。有限ステップに制限しても矛盾である。

§ 相互言及

C: 「命題 D は誤り」

D: 「命題 C は正しい」

上記2命題において、それぞれの命題は形式的には問題はない。
しかし2命題は外部参照型の循環構造になっている。

C を「真」とすると、「命題 D は誤り」なので、D 文をここに代入すると「「命題 C は正しい」は誤り」となる。

従って、これも命題 C に対して、「真」と「偽」の対立判断となる。(命題 D も同様である)

上記2命題も、「同一対象(主語)」に対して、構文上「判断が二重的対立になる」という、対象と判断の問題である。そして、無限循環構造をもつ。

これは「形式」の矛盾ではなく、「対象」と「判断」に悪循環構造が現れる「事態」の矛盾である。

§ 高階の悪循環

型の理論(述語論理)で「2階以上の高階の対象」は、「ある対象」に対して再定義、多重定義という性質をもつ。これが問題を生みやすい原因となる。

パラドックス問題は、カントールやラッセルやその他、主に集合論から出現している。

集合論には必然的に「2階以上の高階の問題」が含まれる。何故なら、2階の対象は、1階の対象の集合であり、3階の対象は、2階の対象の集合だからである。

集合とは、要素に対しての分類であるが、分類と要素の関係矛盾を防ぐ方法が必要となる。分類の「要素」が「ある分類」により変更になる場合には矛盾が発生しやすくなる。

例えば、「本ブログ内の命題は、xxxである」と書くとする。

「本ブログ内の命題」は分類であり、「各命題」が要素である。この文を書く前には要素は n 個であり、書いた後では「文自身が要素になるので」 (n + 1) 個であり、その後も増えていくので (n + 1 + 不定) 個である。ではこの分類に対する要素はいつ決定されるのか?

分類と要素には単純に考えてもこの関係矛盾の可能性が含まれる。

集合論や数学的帰納法、その他高階を許す場合には悪循環問題についての考慮が必要である。

第1不完全性定理は、「この論理式G(ゲーデル文)は証明できない」という論理式Gが作れるという問題であり、「嘘つきのパラドックス」と同様の構造をもつ矛盾命題が現れる。

これは2階以上の高階型の悪循環であり、同一対象の論理式G(ゲーデル文)に対する二重判断(矛盾判断)である。

不完全性定理が示しているのは、「排中律」を前提した「自然数論を含む高階型の」公理体系においては、数学的事態の矛盾をもつ命題が現れるのであり、それを取り除く公理を追加しても新たに矛盾命題が現れる、ということである。

元々、不完全性定理は非構成的な証明方法を採用し、前提している。結局、それは非構成的な方法の「不十分さ」「曖昧さ」を証明している。

こうしたパラドックス、悪循環の問題を解消するために、数学の基礎づけが要請されたが、形式主義の方法がこの悪循環を根本的には解消しないのはブラウワー(や既にポアンカレ)や不完全性定理の示すところである。

それは「直観」を排除し、数学を実在的客観、機械的形式として捉えるような志向に対する警鐘的意味をもっている。

フッサールの超越論的論理学が「示唆」しているように、ある「命題」の判定は、その命題が「論理的に閉じている」「事態の矛盾がない」ことが判断条件である。

従って、ある「命題A」が「別の命題B」を参照している場合などは、命題Bへ辿って(遡って)、そして事態矛盾(同一対象で判断が異なる、関係矛盾など)、命題が閉じない(無限循環)などの矛盾がないことが確認されて初めて命題の判断が可能になる。

「命題A」が自己参照(自己言及)している場合は、B=Aと考えてもいいし、「命題A」のコピーを参照していると考えてもよく、これは同じ事である。

§ 排中律

排中律は、命題aが 「a」 であるか 「aでない(¬a)」 かどちらか一方が成り立つことを主張する。

しかし、ある命題aについて、その命題が「意味不明」であったり「真偽では言えない価値的な命題」であったり「矛盾命題」である場合もある。

数学的命題においては、ほとんどの場合それらは「排除」される。また公理上の推論命題においてはほぼ「排除」される(ように公理が設定される)。しかし排中律が全てにおいて成り立つことは自明ではない。

「真」か「偽」が成り立つことが、数学では「命題」と定義していることが多いが、この定義は曖昧さを残している。

「証明できない難問題」や前記のように悪循環を内包した「形式的には問題のない命題」「各種のパラドックス問題」、不完全性定理が示すように「公理を追加しても新たに矛盾命題が発生する場合」もあるからである。

§ 諸原理の原理

「一切の諸原理の中でも肝心要の原理がある」

「それは全ての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であること」

「この一切の諸原理の原理に関しては、考えられうるどんな理論も、我々を迷わせない。何故なら、どんな理論も、当の自分の説く真理そのものを、再び原的所与性から汲み取ってくる以外にはないことを洞察するからである」
(フッサール)

ある理論があるとすると、理論は「独立して単独に」存在するように見えるが、「理論に対する直観」がその正当性の源泉にある。

もし「数学的規則、形式」が「直観」なしの「数学的規則、形式」に根拠づけられるならば、循環であり、その根拠(数学的規則の根拠)は不明なままで、根拠を求めて彷徨うことになる。

「数学的規則、形式」の最終的根拠は、数学的事態に対する「直観」によるものである。(普段は意識しなくても)そこに遡れることが、数学的言明の正当性を根拠づける。それは「規則」の「外部」であるが、そうした人間的直観を切り離した「規則的体系」は実は循環論になっている。

「数学の述べている全ての命題が、形式論理の諸規則によって次々と演繹できるならば、なぜ数学はひとつの巨大なトートロジーに還元されないのか」 (ポアンカレ)

数学が「規則」により全て演繹されるもので、何ら発見がないならば、数学はただの機械的演繹である。では、その規則を決めたのは誰なのか?その規則は何によって決められたのか?規則に不備があるとすると、不備というのは何により判断されたのか?

数学においては「発見」と「演繹」、「直観」と「論理」は両輪である。

「定義は、その用語においても、矛盾を含まず、先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明し得なければ正当なものとは認められない」

「公理は単なる定義、勝手な規約ではなく、確かに正当な規約である。公理群については私はそれを正当だと信じている。何故かと言えば、それは親しいある種の経験的事実と最もよく符合するものであって、最も便利なものだからである」
(ポアンカレ)

定理などの習慣的になっている「知」は、普段疑われたりはしない。しかし、その定理も遡れる、確認できることで定理たりうる。定理とは、そのような疑いを反復的、客観的(他者による検証)、歴史的に乗り越えたものであるから、疑う根拠が希薄であり、もし疑っても自分で確かめることができるものである。

ピタゴラスの定理も、自分で確かめることができるし、懐疑することも可能である。しかし、簡単な定理で歴史があるものは、最近解明された難解な証明問題などに比べると、問題を見つけられる可能性は限りなく0%に近い、というだけである。


不完全性定理と直観主義 (1/4) [数学系]

ゲーデルの不完全性定理は、関係本を読んでみてもその解釈については様々である。

「数学」的側面はいいとしても、問題は「哲学」的側面である。
(この問題は数学面だけで理解することは難しく、哲学問題と平行する)

最も同意できたのは、直観主義者ブラウワーの次の言葉である。

「不完全なのは当たり前で、つまらない」

※ 問題の性質により、内容や煩雑さから、ある段階の理解を前提にする

§ 経緯

不完全性定理は次のような経緯を辿っている。

発端は、ブラウワーの直観主義とヒルベルトの形式主義の数学の基礎づけ論争である。

ブラウワーはヒルベルトに対し、形式主義の「無矛盾性の証明など不可能である」と論文「形式主義に関する直観主義的考察(1927)」で警告する。

「形式主義数学をその無矛盾性の証明によって(内容的に)正当化することは、悪循環を含む」

ゲーデルはその「形式主義的な無矛盾性の証明が不可能である」ことを証明しようと試み、成功する(1931)。これはブラウワーの論文や講演などをヒントにしたようである。(ブラウワーの考えに全く同意したわけではないようだが)

それに対する当時の反応として次のようなものがある。

「ゲーデルの証明は、数学的厳密性の最も厳格な基準である直観主義的規範を満たすものであった」

「数学的主題は、その経験的源泉から遠く離れたり、たくさんの抽象的交配を経た後には、堕落してしまいかねない危険に陥ってしまう」
(フォン・ノイマン)

形式主義派であるノイマンがそのように述べている。

ブラウワーにとっては、不完全性定理の結論は以前から明らかで、元々主張してきたことが数学的に証明されただけであり、「そんなにも多くのことがそれについて言われているのに驚き」を表明する。

「数学は、ブラウワーと共に最高の直観的明瞭性を獲得する」(ヘルマン・ワイル)

しかし、ワイルは同文で懸念する。

「より高いより一般的な理論へ進む場合、古典的論理学の簡単な原則が適用できないことが、結局、ほとんど耐え難い重苦しさになってしまうことは否定できない」

基礎づけ論争としては、(形式主義は維持できなくなり)直観主義の側が優位となった。それは形式主義派も認めざるを得ない。

しかし、もし直観主義を厳格に適用するなら数学が失うものも大きい。

本当にそれでいいのだろうか?

そういう懸念がワイルなどにあり、ゲーデルの工夫やそれ以降の考察にも繋がる。

不完全性定理自体はそう問題ではないが、直観主義の数学への全面的適用は問題であり、話はここから複雑になる。「直観主義で失われると考えられる部分を救うこと」に対する模索である。

「このような過激な帰結を免れる方法はないものであろうか?」(ワイル)

§ 不完全性定理

(数学面は別書に譲るとして)不完全性定理とは何か?

[第一不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、それが無矛盾ならば形式的に不完全である

[第二不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、公理系が無矛盾ならば、公理系の中だけではその無矛盾性を証明できない

※ これらは述語論理(高階を含む)に基づく

公理体系(形式体系)上の命題は無矛盾でなければならない。

公理からの論理的推論により命題「a」が証明されるならば、「¬a」(aの否定)が証明されてはならない。

つまり、公理体系上の命題において「a かつ ¬a」というような排中律違反の矛盾命題が現れてはいけない。

しかし何故、現れてはいけないのだろうか?

そもそも直観主義において「排中律」は無条件に自明なものではないとして拒否される。

従って、「排中律」を前提とした「無矛盾性」というのは「形式主義的-無矛盾性」である。

「無矛盾」でなければ「数学的矛盾」であるというイメージを与えかねないので、「無矛盾性の証明」という言葉は「形式主義的-無矛盾性の証明」と読み替えないといけない。それはヒルベルトの目標であったが、数学の基礎づけ上の一つの立場である。

「形式主義数学の無矛盾性の証明によって、その(内容的)正当化をすることは循環論法を包含してしまう。何故なら、この正当化は「命題の無矛盾性から命題の正しさが得られる」という命題の(内容的)正しさに依存しているからである」(ブラウワー)

つまり、「排中律」を前提に、無矛盾性(公理体系上の命題の排中律の成立)を導いても、それは循環論法(排中律からの排中律の証明)である。その前に、排中律と共に公理群自身が「いかに成り立つか」の説明、証明を行わないといけない。基礎づけは、前提を排したものである。

公理体系上において「矛盾命題」が現れることが問題であるならば、何故それが問題なのかの証明が先に必要である。

というのは、個々の命題の言語規則、記号規則では対象とする数学的事態を「一義的に捉えることはできない」からである。従って、数学的矛盾を全て捉えることもできない。

形式主義の問題点は「命題(文)」での「排中律」を想定したからであり、「対象とする数学的事態」が「成立(存在)するか、しないか」という対象存在志向が希薄である。数学的事態が成立するか否かは、(数学分野の性質にもよるが)命題形式的に一義的には捉えられない。

「全ての数学の形式系に付きまとう不完全性の真の理由は、どんな形式系においてもたかだか可算個の型しかないのに引き替え、高階の型の構成は常に超限的に継続できるからである」(ゲーデル)

このことの意味について以降で説明する。


光と同時 [科学系]

人がある事物を見ている時には、その対象を見ているのではなく、対象からの光(発光体の光または反射の光)を見ている。科学的説明ではおおよそこうなる。

例えば、アンドロメダ銀河は「地球から230万光年の距離に位置する」と言われる。

地球からアンドロメダ銀河まで光の速度で「230万年」かかる距離ということであり、つまり今「観測」しているアンドロメダ銀河は「230万年」過去の光ということになる。「今のアンドロメダ銀河」は「230万年」後でなければ見られない。

しかし考えてみると、ここには「ある前提」が存在する。

「同時性」という前提である。

「今の地球」と「今のアンドロメダ銀河」とは「同時」が存在し、「ある距離」離れている。その前提で「今」の「観測者」から見て「対象」は「過去(の光)である」という帰結である。

が、「同時」というのは誰かが観測したものではない。一気に同時に2つの離れた地点の「今」を見ることはできない。

「同時」というのは主観を離れた仮説であり、そこは「超越者の観測視点」の領域である。

ニュートン力学では、空間内のどこにおいても「同じ」絶対時間が存在する。

地球 ←――――――――――→ 土星

7:00 ――――[同時]―――― 7:00

誰がどこにいようと、宇宙上では同時刻が存在する。「同時の絶対」である。

しかし、この「同時」を「誰が見たのか」、「超越者か?」という問題が発生する。どこから、誰が見ても「同時刻」というのは一つの仮説である。

そこで相対性理論では、一工夫される。

地球の[観測者A]――――[対象は光で同期]――――――→ ロケットの先端(7:00)
                  [対象は光で同期]――――――→ ロケットの後端(7:00)

(7:00)地球のある地点X ←――――[対象は光で同期]―――― 土星の[観測者B]
(7:00)地球のある地点Y ←――――[対象は光で同期]

「同時」というのは「ある観測者から見て」設定される。距離が離れている場合でも、ニュートン力学では「超越者視点」で「同時」であるが、相対性理論では「一方の観測者」から見ての時刻しか言えなく、対象側は「光(の速度)」を用いて時刻が同期化される。

我々は、神ではないのだから「誰か」から見た「観測」しかできない。「観測者」は対象物から反射した「光」しか見ていないのだから空間距離が離れた分は「光」で同期させる、ということである。

「観測者」が見ているのは、「ここ」での「光」であり、離れた場所にある物体は「ここ」に到達した光の観測である。では見ている対象は「見かけ上」のものしか観測していないのかという疑問も残るが、それは「誰かから見たもの」なので「見かけの物体」と「実際の本当の物体」と分けることはできない。(分けるなら、「誰かからみた観測」という話から、2つの時点を同時に見た話に変わっている)

「超越者視点」から「観測者視点」に、ということで「客観主義」から「やや超越論主義に近づいた」と言えるのかも知れない。


現実世界は、偶然性の排除できない世界である。偶然性がなければ決定論になる。常態的な部分や予測可能な部分についてもそれは経験的な因果での確実性であり、理念的な普遍真理性ではない。

事実現象のある因果に着目すると、それは「理念」や「数値」によって「理論」として「近似的に」いつでも成立する「法則」を構築できる。

しかし、その法則は、人間の「観測」や「具体的作業」や「装置」や「現象理解」という現実的な行為・理解によって初めて成立するものである。人間の現実的観測行為と相関性をもつものであり、世界自体を「客観世界」として「人間」と分離させることはできない。分離しても厳密には様々なパラドックスが現れる。

「現象」のある因果から「仮説理論」を立てる。それを「実験」により反復させ、「近似的に」どこでも成立し共通理解が得られると、その「仮説理論」は「実的理論」となる。

「現実的実験」 → 「理論」 → 「現実的実証」

と「理論的なもの」と「現実(事実)的なもの」とは次元が常に移動しながら、最終的には、「実証」により「実的理論」となる。「実証」のない理論は「仮説的」にとどまる。(何をもって実証とするのかは難しい)

「実的理論」も事実現象をある観点で切り取ったものなので、新しいより優れた観点モデルが現れると、前の理論は再構築や放棄や条件制限される。観点モデルというと虚構的にも見えるが、経験的な因果を理解するためのモデルであり、モデルがないと実用、応用、改善はできない。

「量子論」などが提示する問題は、これ以上進むと「哲学」になり、「主観的なもの」「経験論的相関性」を考慮しないとよくわからないという所まできていることが多い。そこからは様々に意見が分かれる。本来は「哲学」からその基礎原理についての示唆があるはずである。

少し見た限りでは、現象学とフラーセンの構成主義的経験論がその部分では最も進んでいるようである。この二つは近い関係にあるが、後者はより具体的に掘り下げられている。(和訳が絶版になっているが、本格的なものは人気がないのか・・・)


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