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無限 (2/2) [数学系]

§ 無限操作と収束

無限とは有限でないことであり、無限と有限は対立概念である。

「数学の無限」 はある操作が継続するということであり、その 「操作内容」 は知られている。

無限には2種類の無限が存在する。(振動などはここでは除く)

収束する極限値を 「もつ」 ものと 「もたない(発散、無限操作)」 ものである。

有限主義と半直観主義では次の点で異なる。

有限主義は極限の扱いを認めないが、半直観主義では認める。


 収束する極限値収束しない無限操作
有限主義××
半直観主義可能無限
カントール系実無限


例えば、「 n → ∞ 」 で 「 1-n.GIF 」 の場合、これは 「 0 と等しい」 のだろうか?(極限値 = 0 である)

次の三つの立場がある。

● 有限主義(無限を認めない)… 無限は観念上の産物であり「 0 と等しくはならない」

● 半直観主義(可能無限)  … 「 0 と等しくはならない」 が収束する極限値としての 「 0 の使用」 は認める

● カントール系(実無限)  … 「 0 と等しい」

「 0 と等しい」 とすると、「 1-∞.GIF = 0 」 ならば 「1 = 0 × ∞」 であろうし、これは問題になる。

有限主義では、無限を使用できないので収束する極限値は扱えず、解析学(微積分)は様々な面で制約を受ける。

半直観主義では、収束する極限値は近似値にしかならないが、無限に近づくのでその使用は数学の 「厳密性」 を損なわないと考える。よって、解析学でのその扱いについてはほぼ問題ない。

有限の操作の場合、例えばある操作を3回行うと、X0 → X1 →X2 →X3 と最後は静的なものになる。

しかし、無限の操作を行うと、X0 → X1 →X2 → … 最後はなく、操作が動的に続くだけである。

収束する極限値がある場合、その操作は「無限の操作」であるが、極限値自体が 「静的な値」 なので、これを使用することは問題ない。

収束しない無限の場合、「∞」 や 「無限操作を内包するもの(例えば数学的帰納法)」 については 「静的なもの」 にならないのでこの使用は注意しなければならない。

ルート2.gifpai.gif の無理数については、(極限値として)ルート2.gif, pai.gif として用いる場合は問題ないが、小数点展開する場合にはその展開が無限操作になるので注意が必要である。

収束する極限値は、実無限でも可能無限でも(その極限に至る解釈は異なるが)極限値を用いる場合には同じ運用になる。従って、実無限か可能無限か特には意識されていない場合が多い。

しかし、収束しない場合、無限は継続的なものになる。このとき実無限という 「完結する無限」 は問題が発生する。

例えば、

Σ1-2i.GIF = 1

1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1

1 に収束するということであるが、これを

(1) 実無限  … 無限に計算し終わった値が 1
(2) 可能無限 … 1 に限りなく無限に近づく

とどちらで解釈しても極限値 (1) を用いる場合には同じである。

しかし、実無限でも可能無限でも収束する極限値の扱いが同じであることは、心理的錯覚を起こさせやすい。

「収束する極限値を用いる場合」 も 「無限操作」 も同じように扱えるのではないかと思わせる効果を生む。

後者の場合、実無限と可能無限は異なり、実無限は問題となる。

§ 無限の有限化

次の2つの命題があるとする。(自然数は 0 ~ とする)

(1) 「自然数の中で、奇数でないものは偶数である」

(2) 「自然数の中で、奇数と偶数は同じ数だけある」

(1) は当然正しい。奇数と偶数の排中律は自然数の中で成り立つ。

では (2) は正しいだろうか?

これは正しくない。何故なら、もし正しいとすると、自然数 (0~) の終わりは奇数になるからである。

何が違うのか?

(1) は自然数の終わりを想定していない。

(2) は自然数の終わりを想定している。

(1) は 「自然数全体」 を括って有限化していない。また奇数も偶数も括って有限化していない。つまり、無限を数えているわけではない。

(2) は 「同じ数」 というところで、有限化している。奇数と偶数も自然数も無限の数あるのに 「ある括り」 により有限化している。

この点を考慮しないといけないのは無限のもつ特性であり、考慮しないと 「有限主義」 にならざるをえない。

(2) の命題において、「奇数と偶数は同じ数だけ-ない」 と仮定して 「矛盾」 を導き、そして 「奇数と偶数は同じ数だけある」 という背理法は成り立たない。

この命題は 「無限の有限化」 を内包する矛盾命題であり、「同じ数だけある」 と 「同じ数だけない」 の排中律は成り立たない。

「自然数」 の数え方というのは自明ではないので 「ある括り」 が要求される。0 から数えても、どこから数えても本来同じでなければならない。無限から数えることはできなく、自然数全体を数えることはできない。

無限(集合)を 「全体を括り」 数えることは 「無限の有限化」 である。

§ ガリレイの例

自然数がある。自然数を2乗すると2乗数である。従って、自然数と2乗数は 「1対1」 の対応付けができる。

そうなると、「自然数全体と2乗数全体は同じ数である」 (A) という命題は正しいだろうか?

2乗数自体も自然数であり自然数の一部である。すると、上記命題 (A) は矛盾となる。

この例も暗黙に 「自然数」 の終わりを指定している時点で矛盾である。これは 「有理数」 でも 「実数」 でも同じである。

「終わり」 を 「どこに揃えるか」 というのは 「自明でない」 (無限だから設定できない)のに 「暗黙」 に 「各々」 に設定が行われている。

§ 1対1

「自然数」 と 「何か」 (偶数、自然数の2乗、有理数など)は 「1対1」 である。と言うとき、その時点で両者の 「ある終わり」 によって比較している。

「1対1」 の比較は有限集合でしか行えず、無限集合には適用できない。

また同様に、無限集合に 「並べ終わる」 という概念は矛盾である。

無限に続く操作の場合、収束する極限値がある場合その値を用いてよい(その値は無限操作ではない)が、ない場合、操作が終わることとしてはいけない。

従って、「排中律」 「背理法」 が問題であるのではなく、「無限の有限化」 (つまり実無限)が問題であり、「無限の有限化」 を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用が問題の本質である。

不完全性定理も高階を許す場合、内部に再帰的無限操作を有するものである。その場合に、「排中律」 を用いた命題の体系は成り立たない。 「排中律」 を用いた証明は 「無限操作の有限化」 を内包している。

§ 対角線論法

カントールの対角線論法(詳細は本やサイトを参照)も 0 ~ 1 までの実数を 「全て並べ終えたら」 と仮定して矛盾を導いている。この時点で上記と同じ問題がある。

無限のものを 「全て並べ終える」 ことはできず、それは有限でしか使用できない。この 「仮定」 自体が 「無限の有限化」 であり、それを用いた背理法は使用できない。

§ 数学的帰納法

数学的帰納法は、有限の記述で無限の対象を証明する方法である。

P(n) という命題があるとする。

・P(0) は真である
・P(k) が真であれば、P(k+1) も真である

以上が真であると、n = 0, 1, 2, … と順に全ての自然数 n について P(n) が真であることが証明される。

証明の記述は有限であるが、操作には無限操作が内包されている。

この場合、無限操作は閉じない(終わらない)という特徴がある。

「数学的帰納法は無限を生み出す原理である。数学的帰納法は有限から無限への架け橋であり、数学的帰納法が絶対的に正しい原理であることを証明するには数学的帰納法によらざるをえず、従って数学の無矛盾性は決して証明できるはずがない」 (ポアンカレ)

「操作が継続する」 ということはある操作の 「再帰」 である。P(k) が真ならば、P(k+1) も真という操作は P() の再帰である。

「ある1つの命題」 の記述であっても、無限の操作がそこにはある。

この場合、「命題」 が 「真」 であることを示すには、「全て」 の繰り返される無限操作について 「真」 であることを示さないといけない。数学的帰納法は順番に次々と 「真」 であることを証明する方法である。

では、「偽」 の 「矛盾」 (二重否定)は 「真」 であろうか?それは1操作では成り立っても、無限操作では成り立たない。

有限の操作は一つのまとまった操作として1操作化できる(まとめられる)が、無限の操作はできない、これが不完全性定理のポイントである。

排中律が成り立つとは、全体があり、「真」 でなければ 「偽」 であることである。しかし、無限操作は 「全体」 が見えず、操作がどこまでいっても 「不可視」 の部分がある。「全体」 を括るのは 「無限の有限化」 である。

「数学的帰納法」 を使う命題が正しいことは、数学的帰納法を使い 「n = 0 ~ ∞」 へと確認せざるを得ず、無矛盾性を前提とした背理法の使用はできない。

(高階の)無限操作を内包する命題の 「二重否定(偽の矛盾)」 は必ずしも 「真」 とはいえない。というのがポアンカレの意図である。

従って 「不完全(無矛盾性は証明できない)なのは当然」 であり、不完全性定理はより的確に指摘されていた(といえる)のである。

§「0.999 … = 1」 ?

「…」 の定義は明確には決まっているわけではなく、利用は慣習的であり、何パターンかある。

通常は lim (極限) の意味が含まれることが多い。

例えば、

(1) Σ1-2i.GIF = 1

(2) 1/2 + 1/4 + 1/8 + … = 1

数学書では、こう併記されることが多い。

Σlim.GIF と定義されている。

従って、Σ1-2i.GIF = 1

となる。1 は極限値である。

(2) の場合、= であるならば、「…」 は 「lim」 の意味も兼ねることになる。

だから、「0.999 …」 の、この 「…」 を上記と同様に総和 Σ の 「lim」 の意味も兼ねると見る場合、「0.999 … = 1」 ということになる。

しかし、「…」 は単に 「計算の軌跡」 も意味する。

ルート2.gif = 1.414213 …

こう記述した場合、右辺は 「10進数で少数展開した場合の計算の軌跡」 である。

何故なら、右辺から左辺に変換できないからである。

1.414213 … = ルート2.gif

は書けない。

ルート2-000001.GIF = 1.414213 … でもあり、「1.414213 …」 は 「計算の軌跡」 と言える。 「…」 以前の数値を伸ばしても同じ問題が発生し、結局 ルート2.gif を知らないと10進数に変換できない。

では、「0.999 …」 「0.333 …」 はどうだろうか? 単独でこの数値記号を取り出すとそれ自体を定義しないといけない。この記述が出てきた経緯があればそれにより解答が与えられる。

一般に、左辺から右辺へと計算のステップは進むが、「=」 の左辺と右辺は同値だろうか?

0.999 … この少数展開部分は実無限なのか可能無限なのか?

数値と数値、記号と記号の間に 「…」 が使用されることもある。この場合の 「…」 は 「操作の継続」 のみ意味する。

従って、「…」 は慣習的に状況に応じ誤解を与えないように通常使用すればいい、となる。

ある体系のある定義の中での扱いとも言える。

数学は記号を用いたシステムなので、本来記号の意味するところは定義されている。しかし 「…」 は文脈上矛盾がなければ(意味がわかれば)便利に利用できる記号である。

だから単独で取り出すと、どういう状況で普段使用されているか帰納的に調査しないといけない。これは演繹的な数学の問題からは外れる、とも言える。

では、定義を明確に記号を分ければいい、とすると、この記号の便利さが失われる、とも言える。

これは数学的問いなのか哲学的問いなのか・・・

§ 数学大系

数学の大系は一元化だけでなく、多元化、多階層化したものも考えられる。

基本拡張クラス.GIF

・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 は相互に利用、干渉し合わず、相互矛盾があってもかまわない

・ 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 から見て、「基本クラス」 には矛盾があってはいけない

・ 「基本クラス」 からは 「拡張1クラス」 と 「拡張2クラス」 には干渉しない。

単純モデルであるが、汎用的に拡張可能である。

例えば、基本クラスの基礎部分に数理論理学がある。「基本クラス」 に構成的な体系、「拡張クラス」 に抽象的、非構成的な体系などである。ただこれは1例である。

§ ある地点以降

収束する極限において、極限値を用いる場合は実無限も可能無限も同じである。従って、実無限を可能無限に変更しても何ら数学的に変更はない。

収束しない無限、無限操作において 「無限の有限化」 (実無限)は矛盾である。

従って、実無限を取り除くことで実害はなく、矛盾だけを取り除くことができる。(現実はどうあれ、理論上はそうなる)

解析学などで収束する極限を用いている場合はほとんど問題は生じなく、問題があるとするとカントール系のある部分と思われる。

直接の問題は 「無限の有限化」 (実無限)を伴う 「排中律」 「背理法」 の使用であり、それ以外は根本問題ではない。従って、(微妙な部分はあれ)多くの背理法の使用は問題ないと思われる。

数学の主義的な意見の相違は次の段階である。

(ハイティング系の)直観主義論理は排中律排除が強調されているように思われる。 「直観主義=排中律排除」 というイメージがあれば誤解を生みかねない。 「排中律は必ずしも正しいとはいえない」 と 「排中律排除」 は異なる。

一般にパラドックス、矛盾を解決する方法としては2通り考えられる。

一つは、演繹的解決であり、問題を起こす本質から解いていく方法である。これは難解になるケースがある。

もう一つは、帰納的解決であり、パラドックスが生じる例を抽出し、その例を分類し共通する構造を探し出す。それを個々に解決する方法である。

演繹的、帰納的解決の両者が一致したとき問題はほぼなくなる。それはプログラミングに似ている。

以上の論点は、ポアンカレが指摘している段階であり、ポアンカレは簡易な解決案を示している。嘘つきのパラドックス、不完全性定理、チューリングの停止性問題、集合論のパラドックス、対角線論法、一連の平行するパラドックス問題は基本的に同じ構造である。

ブラウワーはそれを引き継いだ。はずだったが・・・(成功したのか、しなかったのか、それとも狭間の問題になっているのか・・・)
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無限 (1/2) [数学系]

数学の基礎づけ論争から派生する内容は複雑であるが、追っていくとほぼ論点は出ている。

以前考慮できなかった部分について補っていく。若干史実的に合わない部分もあるかもしれないが、明瞭さを優先する。

数学の哲学に関係する部分はポアンカレがほぼ基点になっている。

ブラウワー(以降)の直観主義はポアンカレ(半直観主義)を継承した。しかし、直観主義を現実に適用すると狭い数学にしかならず、制限されるものが多くなる。

ということでワイルなど(半直観主義者)はブラウワー直観主義を少し留保した。

§ 点と線

「線は点からなるのか?」

これについては2つの定義が存在する。

(1) 線は点の集まりではない

「点とは部分のないものである。線とは幅のない長さである。面とは長さと幅のみを持つものである」 (ユークリッド)

この定義では、点は部分をもたないので、点を集めても線にはならない。

点は 0 次元、線は 1 次元、面は 2 次元と考えられる。

この定義を拡張するとポアンカレの多次元に関する定義になる。

● ある連続体の切断面(切り口)が 0 次元のとき、その連続体は 1 次元である

● 切断面が 1 次元であるとき、連続体は 2 次元である

● 以下、切断面が n 次元であるとき、連続体は n+1 次元である

これはユークリッドの定義を多次元まで拡張し柔軟にしたものである。

例えば、直線(1次元)の切断面は点(0次元)であり、面(2次元)の切断面は直線(1次元)であり、立方体(3次元)の切断面は面(2次元)である。

4 次元の切断面は 3 次元である。直観的にはわかりにくいが、抽象的には理解できる。以下、無限次元に拡張できる。

「線は点の集まりでない」 とすると、「線分1」 の中で点は 「線分0」 であり、 0 をいくらたしても(無限にたしても) 1 にならない。

この定義では点は線の中で 「位置のみ」 を指示する。

(2) 線は点の集まりである

「点とは、その部分がないものではなく、またその部分が考えられないものでもなく、その延長が 0 というものである。あるいはその部分が離れていない、その量が考察不能、指示不可能なものである」 (ライプニッツ)

ユークリッドの定義とライプニッツの定義は相反する。

「量」 という概念が、算術と幾何学の融合から生まれ、特に解析学(微積分)において発展する。 「無限小」 という概念が解析学に便利さをもたらす。

ただ、この定義は構成的に不明瞭な部分を抱え込むことになり、ライプニッツの当時から哲学者や数学者によって議論になる。

例えば、「線分1」 の中で点は部分となり、点をたすと 「線分1」 になる。従って点は 「線分0」 ではなく 「線分無限小」 とでもいうべきものになる。

しかし、「無限小」 をたすと 「1」 になるとすると、それは 「無限回」 たすのであるが、

「無限小」 × 「無限大」 = 1

1-∞.GIF × ∞ = 1

とでもいうものになるが、これは変である。 ∞ は 「値」 ではなく、比較演算できないからである。

「無限小」 とは何か? 「無限に小さくなるもの」 は静的な 「値」 ではない。

従って、この考えは直観的、構成的な考えではなく、抽象的な定義である。

しかしこれをこの部分で問題視するのは早く、「無限小」 と 「無限大」 は本質的に異なる。

解析学は、主にケプラー、ニュートン、ライプニッツ、オイラー、コーシー、ワイエルシュトラス、デーデキントなどにより発展する。

§ 有限主義

それに異議を唱えたのがクロネッカーである。

「数学の算術化。整数の上に有限回の演算のみを認める数学のプログラム。pai.gif という数など観念の中でしか存在しなく、数学は形而上学ではない」 (クロネッカー)

「哲学的な理由から、整数又はせいぜい有理数だけの存在は認めるが、無理数を完全に追放したいと思っていたクロネッカーにとって、ワイエルシュトラス流の関数論は基礎づけが不十分であると考えた」 (クライン

クロネッカーの哲学は 「有限主義」 に近い。 (ただ数学上は必ずしも 「有限主義」 ではなかったようである)

例えば、コンピュータにおいてデータは on か off かのビットで扱われ全て 2 進数である。これは自然数から構成されるものしか認めなかったクロネッカーの立場に近い。 2 進法も 10 進法も桁の繰り上がりの値が違うだけで構造は同じのものである。

有理数は 1-3.gif のように 0.333… と循環小数になるものもあるが、これはコンピュータでも分母と分子の 2 データもてばいいので正確に値をもつことはできる。

しかし、無理数のデータは正確に値をもつことはできない。もし、計算で求められるとしても無限の操作が必要である。クロネッカーは 「永遠に続く操作概念」 などというのは観念上でしか存在しないではないかと疑い、「無限操作」 によって成り立つものを追放しようとした。

但し、一つの立場として有限主義は考えられるが、それで一元化しようとするとかなり狭い数学にしかならない。一元化は極端で同意は難しいが、多元的な数学の一端としては成り立つ。

実際、計算機科学の基礎に近く、コンピュータは有限主義である。時間は有限であり、データ領域も有限である。どれほど高速にして、領域を増やしてもそうである。

無限はプログラムでは永遠ループ ( C言語では while(1) ) となる。しかし、時間が有限なので本当はコンピュータ上でも有限ループである。

(時間は有限であり、人の心理的時間と共にある。しかし、無限可能性を未来にもち、これは数理哲学のテーマとなりうる。数学の操作、ステップは時間と無関係なものだろうか、無限はどうか?)

実数は解析学上 「数」 的なものではなく 「量」 的なものとして定義される。それにより 「実数の連続性」 という公理、概念を満たす。

「量」 的なものは、極限や無限小という無限概念で成り立つ。

§ 関数

次の関数があるとする。

(A) y = 2x

これを直交座標系で示すと

(B)
y2x.JPG

このような直線が描かれる。

(A) も (B) も x, y は -∞ ~ +∞ の値をもつことができる。

では、(A) と (B) は等しいと言えるのか?

変な疑問かもしれないが、次のように言葉を変えてみる。

(B) の直線は 「部分をもたない点の集合」 だろうか、それとも 「連続線」 だろうか?

「点(0次元)の集まり」 だろうか 「線(1次元)」 だろうか?

§ 実数

実数は 「実数の完備化」 という手続きで 「直線上での点の位置が各実数に対応」 する。

「完備化」 という手続きは位相空間の完備化という手続きに平行する。極限値の集合により実数は完備され(極限値が切れずに繋がる)、「実数の連結性」 として説明される。

(Wikipedia 実数、極限、コーシー列、完備距離空間、連続(数学)などを参照)

直線の位置は実数(の極限)で完備されるが、この概念は難しいので、数学的にはほぼ同値の 「実数の連続性」 に焦点を当てる。

「実数の連続性」 というと、ある実数の「隣」に実数がありそれが連続するとイメージさせる。しかしこの概念は構成的問題を持つ。

ある実数を x1 とする。 x1 の「隣」に + 方向へ x2 があるとすると、

もし、x2 - x1 = 0 であれば、x2 と x1 は同じなので矛盾する。

x2 - x1 = k > 0 で、k がある正の値ならば、k/2 など x2 と x1 の間に数がありこれも矛盾する。

従って、k は 「無限小」 とでもいうべきものであるが、これは構成的には不明瞭である。

「無限小」 にも違いがあると見なすこともでき、n → ∞ で 1-n.GIF1-n2.GIF は両方無限小となるが、n が有限では異なるので、「無限小」にも違いがあると見なすこともできる。

実数が連続するという 「量」 的な考えにクロネッカーは異議を唱えた。彼は 「無限の操作」 を認めなかったので、極限も基本的には認められないことになる。

それでは数学はかなり不便なので、ポアンカレはこうした(解析学上の)収束する極限は問題ないと考え、「収束しない極限、無限操作の扱い」 のみ問題視した。

クロネッカーはワイエルシュトラス流解析学に批判的であったが、ポアンカレは肯定的である。

§ 実数は点(0次元)か線(1次元)の一部か?

デーデキント切断 (Wikipedia デデキント切断などを参照) は、連続する実数をある点で切り分ける方法を定義する。

ある直線をある点で切断する。

例えば、次のように直線 a を a1 と a2 に点c において切断する。

デーデキント切断.JPG

点c は a1 (右端) か a2 (左端) のどちらか一方の端にくっつく。

この定義では、点c は直線の一部分 (無限小部分) であるというライプニッツ流を継承している。

点c には 「実数」 が対応し、「実数の連続性」 を満たすことができる。

つまり、実数は線(1次元)の部分点と同値という考えである。

しかし、ユークリッド流の 「線は点の集まりではない」 という考えを継承すると、数は線の中で位置のみを示す。従って実数も 0 次元の点として、線の中で位置のみを示す。

幅0の点をいくらたしても線にはならず、この考えは、ポアンカレの多次元の切断へ延長できる。

デーデキント切断では切断自体が一つの部分点(無限小点)を有するのに対し、ポアンカレの切断では部分点を有さない。

つまり、実数は 「1次元の線の無限小部分」 か 「0次元の点」 かとこれも二重の定義が存在する。

線を有理数で満たすと 「スカスカ」で あるとされる。従って、有理数の間を無理数で満たして 「ぎっしり詰まる」 ようにする。

しかし、実数が幅 0 であるならば、いくらたしても 0 である。従って、「スカスカ」 という概念自体が、ライプニッツ流の定義(点は部分をもつ)を継承したものであり、「ぎっしり詰まる」 というのもそうである。

§ 点と実数の関係

このように、点と実数の関係は二重性をもつ。

細かい部分は(複雑になるので)さておき、次のように2つの定義にわける。

 実数
ユークリッド型0次元で部分をもたない線の中である実数は位置のみ示す
ライプニッツ型部分点、無限小点 (何次元か規定しにくい)線の中で実数は部分点となり、連続する


ライプニッツ型では、点は線の部分だから、線は面の部分であり、すると点は面の部分でもある。そうなると次元という概念は通常の考えとは異なる。(次元という概念はなくなるとも考えられる)

(この延長上にカントールの 「平面上には直線上と同じ数だけ点がある」 という命題がある)

関数は 「連続線」 でなくても定義できるが、連続線であることにより 「実数の連続性」 が満たされ、それにより 「最大値・最小値の定理」 や 「中間値の定理」 などが扱える。

つまり、関数が 「繋がっている」 ことにより、「スパッ」 とある所で切っても必ずそれに対応する点(実数)が存在する。

関数が 「点の集合」 の場合、「スパッ」 とある所で切るとそれに対応する点(実数)が存在するかどうか、一致する点を証明しないといけないが、証明できない(または困難な)場合がある。 「連続性」 という概念がそれを保証し、実用上便利になる。

「線の連続性」 は 「実数の連続性」 により幾何学と算術が共存する。

ユークリッド型とライプニッツ型は混在し、使用はケースによるが、それにより微妙な問題が生ずる。構成的に不明瞭とされる部分があることになるが、複雑なテーマなのでここでは省略する。

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直観主義の理念 [数学系]

※ 数学関係については部分的に以前の認識になっていると考えて下さい(後ほど少しまとめる予定)

「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」 (クロネッカー)

以下は直観主義(構成的数学)の発想についてである。

直観主義は、数や対象存在を中心に考える 「純粋存在型数学」 である。

この概念より広いあるいは異なる枠での数学についてはここでは扱えなく、基本的な部分のみである。

数学は何から始まったのか、というのは紀元前の話で、現実的にどうだったかという史実的な話はさておき、数学哲学で問題となるのは論理的起源である。そのためには、なるべく先入観を取り除かないといけない。

目の前に 「何かあるもの」 が複数、多数あるとき、それは 「木」 でも 「石」 でも 「指」 でも何でもいいが、その並びに対応する形で 「単位となるある対象の集まり」 が考えられる。

その 「集まり」 を理念的に整備したものが 「自然数」 である。自然数は、繰り返しによって延長され、無限の値をもつことができるように整えられる。

「集まり」 は 「想像」 対象でも 「現実」 対象でもいいが、それに対して 「加える」 「減じる」 操作が経験的に成り立つ。これに対応するのが自然数の 「加法」 「減法」 である。

(算数の足し算、引き算、掛け算、割り算 = 数学の加法、減法、乗法、除法)

自然数の減法を考えると、 「 3 - 3 = ? 」 「 3 - 7 = ? 」 というように 「0」 と 「負数」 が現れ、そして「整数」が整備される。

従って、「はじめに自然数ありき」 又は 「はじめに整数ありき」 と考えられる。

最初のクロネッカーの言葉は象徴的なもので、人間が自然数や整数を作ったと考えることも可能であるし、逆も可能である。 「作る」 の意味によるのであり、自然数の加法、減法については、集まりに対する経験に平行し、人間でなくてもある程度の知性があればここから始まる。この言葉は起源を明かすものである。

標準が10進数になったのは、手の指の数と考えられる。10進数以外でもよいが、指で数えるときに違和感がある。古代には様々あるが10の倍数が多い。

数や加法などの理念操作に応じて 「5」 や 「+」 という記号の整備が行われる。アラビア数字と漢数字が違うように、記号はバラバラであるが、ロジックはどこの数学でも同一である。

「加法」 「減法」 を複数回同一操作を行うことにより 「乗法」 が現れ、「乗法」 の逆操作で 「除法」 が現れる。

整数の 「除法」 により 「分数」 「有理数」 が現れる。

10.gif = ? 」 「 00.gif = ? 」は「乗法」の形 ( 「 1 = ? × 0 」 「 0 = ? × 0 」 ) に直され値が確かめられるが、それは「除法」の根拠が「乗法」だからである。

有理数(分数)の小数表示により、有限小数と循環小数が現れる。

有理数で表すことのできないものが無理数である。

代数的無理数( ルート2.gif など)は 「 x-2.gif = 2 」 と X を有理数で表すことができないものがあるので、それから拡張される。

超越数(pai.gif など)も代数的無理数で表すことができないものとして拡張される。

複素数(虚数)は 「 x-2.gif = -1 」 などから拡張される。

[ [ [ [ [自然数] 整数] 有理数] 実数] 複素数]

このように根拠となる定義から定義の拡張は行われ整備される。

問題となりそうなのは、循環小数と代数的無理数と超越数であるが、1-3.gifルート2.gifpai.gif で考えてみると、

1-3.gifルート2.gif は存在する。 ルート2.gif は「 x-2.gif = 2 」として存在すると考えてもいいが、ルート2.gif でも特に問題はない。

pai.gif は微妙な問題を生むが、幾何学として存在するので、存在すると考えてよさそうである。

つまり、根拠となる存在が矛盾なく与えられている場合、それは存在する。問題は対象存在から遊離した 「記号化」 である。

上記の数を10進数で計算表示したときであるが、これは可能無限として、

1-3.gif ← 0.333333 ・・・

ルート2.gif ← 1.414213 ・・・

pai.gif ← 3.141592 ・・・

左の値に近づく(収束)と考えられる。しかし、10進数において正確には表示できない。

「超越数は存在しない」 という言い方があるが、何らかの存在根拠がある場合は存在すると考え、10進数では正確に表記できないと考えた方がよい。

pai.gif が存在しないなら、幾何学も存在が危うく、数学的理念として存在する。




幾何学の出現は 「現実空間」 との対応である。 「現実空間」 や 「現実平面」 での経験を理念的に整備したのが 「ユークリッド幾何学」 である。

「あるもの」 が移動する、又は「私」が移動・動作するという現実空間での経験や、私と対象との視覚や触覚での関係性は、幾何学の三次元空間によく適合する。生活上での狭い領域の空間は、三次元空間で考えても特に不都合はない。

しかし、現実空間を幾何学的三次元空間で理解するのは 「便宜上」 である。

現実空間というのは、「自己の目や身体」 を中心に拡がる空間である。いわば、真っ暗な部屋でサーチライトにより全体を把握するように、視覚(や触覚、聴覚)により人は全体空間を構成的把握し、また常に記憶として全体的構成空間をもつ。身体に近い中心の部分の方が質的、関係的に重要である。

しかし、幾何学上での三次元空間は、その空間内ではどこも均等であり、質は変わらない。

幾何学的空間はあくまで 「数学理念的」 なものであり、現実空間は 「感性的」 に(知覚を通じて)経験される空間である。これらは同じではなく 「形式が異なる」 が 「便宜的に」 用いると、「数学理念的」 なものと 「経験的(対象的)」 なものが調和適合し、現実的に(真ではないが)妥当である。

自然物はそうなっていないが、人工物が幾何学的なのは、幾何学を元にして人間の満足しうる精密さで作られているからである。

「経験は、どの幾何学が最も真であるかということを認識させはしないが、どれが最も便利であるかを認めさせる」(ポアンカレ)




数学体系を 「はじめから存在するもの」 として学習すると、「客観的な数学全体」 から 「各部分」 が存在するように思えるが、これは逆である。

「各定義」 は 「根拠となる定義、論理」 と矛盾しないように拡張されたものであり、拡張は 「新たな推理」 「直観」 をもとに行われる。

自然数、整数、有理数、実数、複素数というように数(の集合)は拡張されたのであり、最初に 「全体の数」 があるわけではない。拡張された定義は、いつでもその根拠に遡ることができ、遡った先の定義には「存在」が与えられている。

数学は構成的に 「新たな推理」 により進み、構成された部分の中で 「演繹」 的に成り立つのが客観的なものである。

コンピュータは人間の通った道しか通れない。同じルートを高速に走るだけである。そのルートは全て人間が作ったものである。そして1度 「完全に」 作られたルート(定理や関数やCPU)はいつでも検証なく再利用可能である。

作られたルートは客観的に 「既存ルート」 としてあるが、作られていないルートもありうるわけで、数学は(コンピュータと同様)全てが決まった全体としてあるのではない。

数学も構造物として存在し、その構造物以上については 「新たな推理」 を必要とし、それにより構造物は大きくなる。その新たなルートの創造の大きさが数学的価値である。

もし数学が単なる決定したルート体系、トートロジーであるならば、数学者は何を発見してきたのかわからない。元々あったものを発見しただけというならば、その 「元々あったもの」 というのは、超越者目線での仮定である。

「元々あったもの」 として見えているのは、既に発見され演繹的に成り立つ部分である。これから発見される部分については誰も知らない。




現代数学の 「実数の定義」 は、構成的拡張を経ずに、幾何空間(直線)と位相的に対応すると定義され、その根拠として 「実無限」 が使用される。

「実無限は存在しない。私にとってはこの問題には疑問の余地はない」(ポアンカレ)

無限とは 「限りが無い」 ことである。実無限は 「完結した」 無限である。「限り無く、完結」 「終わりなく、終わる」 これは無理がある。

反対の内容をもちながら 「どちらも真」 というアンチノミー(二律背反)から出発した場合、問題が次々と現れても不思議ではない。

「カントール集合論の特徴の一つは、漸次に複雑な建物を築きあげつつ一般的なものに進む構成的定義を与えることをせず、最高類より出発して、最近類と種的差異とによって定義する点にある」(ポアンカレ)

整数から構成的に拡張されたのが実数であったはずが、客観的な実数空間(無限集合)を最高類として定義し、その定義の配下に 「ある類」 と 「その他類」 を作る。

「定義」 は構成的に 「A」 が作られ、それと矛盾しないように 「B」 が拡張される。ここで 「A」 と 「B」 以外は不明であり、「全体」 のことはわからない。

客観的な方法は、「全体Z」 を先に作り、そして 「A」 と 「A以外」 という定義を作るような方法である。「A以外」 は存在が必ずしも与えられていない場合、これが問題のもとになる。

つまり、先に存在するかどうか不明な 「全体Z」 を考えるから、「否定側」(A以外)の整合をとらないといけなくなり、それにより 「排中律」(無矛盾)の成立を考えないといけなくなる。

「A」 + 「B」 = 「定義C」 であれば、「C」 の中に限り 「A」 と 「B」 の排中律は成り立つ。よって、この場合背理法を用いても問題ない。

しかし、「全体Z」 - 「A」 = 「A以外」 という場合、「A以外」 には一致するような定義(存在)を与えることが可能か不明である。このときに、「A」 と 「A以外」 の排中律が成り立つかは不明である。

実数空間は実数の最高類の全体としてあり、その配下に複素数以外の数が収まることになる。しかし、その数は構成的な手続きを経ていないものもあり、「存在」 が疑わしい。

「全体Z」 の配下に 「A」 「B」 「C」 「D」 の数があるとすると、「全体Z」 から定義した場合、「A」 でも 「B」 でも 「C」 でもないものは、全て 「D」 という設定になる。ここで 「D」 は必ずしも存在するとはいえず、構成的に与えることができる 「D」 以外の 「D」 は仮定である。

例えば、「D」 を超越数であるとすると、「A」 「B」 「C」 以外の実数は全て超越数ということになってしまう。ここで、「A&B&C」 と 「超越数」 の排中律は成り立っているのか不明である。

実数空間はどれだけ実数で埋めても 「埋め終わらない」。本来の数なら 「どこまでも埋められる」 & 「どこまでも埋め終わらない」 のはずであるが、「実無限」 の実数空間が仮定され、そこから逆算が発生する。

こうなると 「実数」 というのは通常の 「数存在」 の性質とは異なるものになる。「数存在ではないが、全体が量的なものとしてある」 という不思議なものになる。

つまり、0次元の 「点」 として存在するものを、1次元の 「線」 に昇華させることになるのであり、ここで実無限のマジックが必要になる。

いずれにせよ、この「実数」の定義は、他の数の定義と離れた定義の方法である。

「数存在(0次元)」 と 「量存在(1次元)」 を結びつける必要はあるのか、あるとすればそれは 「実無限」 でなければいけないのか、・・・

「定義は、矛盾を含まず、また先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明しえなければ、純粋論理的見地からは正当なものと認められない」(ポアンカレ)




「純粋存在型数学」 から離れた数学については全体が見えないといけないのでここでは扱えない。

ただ、直観主義は数学の基礎づけに関する問題を解消し、数学の正当性の根拠を提示していると思われる。

「矛盾のない数学的存在」 に 「数学の正当性の根拠」 はあり、「記号」 や 「言語概念」 に対応する 「存在論理がない」 あるいは 「存在が状態変化する」 ことがパラドックスを生む。

プログラムに新たな文法(命令記号)を作っても、それに対応した正当な存在ロジックが与えられていないと無意味なように、存在のない「記号」からパラドックスが生まれてもそれは必然である。

「存在、論理」 は、根拠となる 「存在、論理」 によって正当化される。その地続きとなる 「構成的論理」 により論理の正当性は堅持される。途中の飛躍はそれを分断する。

コンピュータもハード、OS、アプリケーションソフトと地続きとなるロジックにより動作は保証される。何か問題があれば動かないのでコンピュータはわかりやすいが、それを机上で全てチェックするとなると誰でも困難である。

誰しも生まれたときから数学体系は存在し、体系の生成過程については知らない。従って、思考によりその論理的起源は証されるが、それを実際に行おうとしたのが直観主義者であり、機械を通じて行ったのがコンピュータ設計者である。

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直観主義の具体例 [数学系]

直観主義は情報も少なく、イメージしにくいのが難点である。

一つのサンプルとして、以下の問題が良さそうである。

「 1 = 0.99999・・・ ?」

この問題は以前から特に海外を中心に議論になっているらしい。

解答としては、

(1) 1 = 0.99999・・・
(2) 1 ≠ 0.99999・・・
(3) その他

が考えられる。

こうした数学上で意見の分かれる問題は、ほぼ哲学に絡む問題である。数学だけで見るとまずループに入る。

一般に、Wikipedia など、現代数学教育を受けている人の解答は (1) が多く、それ以外の人は (2) に近い傾向にある。

以下では、直観主義をベースにこの問題を考える。

よくある説明では、

1/3 = 0.33333・・・

両辺に 3 をかけて

1 = 0.99999・・・

とあるが、この説明は(当然に見えるかもしれないが)「全行」疑問である。

まず一つの混乱は「0.33333・・・」この記号の解釈が2種類存在することである。

実無限 :到達された値、完結した無限
可能無限:いつまでも続くという可能性としての無限

一般に、「0.33333・・・」こう書くと、「実無限」つまり「無限に続くという値」をイメージする。

しかし「無限に続くという値」は存在しない。何故なら、存在すれば、その存在値からも更に「無限に続く」のだから「矛盾」する。つまり「値」であれば「矛盾」であり、従って「値」ではない。

「0.33333・・・」こう書くから謎めいているが、「33333・・・」こう書けば、この値は無限大へ続くので、こういう「値」は「値としては」存在しないとわかるはずである。

「0.33333・・・」「33333・・・」この両者は収束(他の値に近づく)と発散という違いはあるが、「存在値」の構成という点では「同じ」であり、両方構成できない。

次のように考えればいい。

プログラムにおいて扱われる数字というのは、あるデータ領域(型)をもち、それにより扱える数値の範囲が決定する。

C言語で、

char a;

と書けば、a は 1 byte(= 8 bit) であり、2 の 8 乗 = 256 個の数値を扱える。

long型 だと 4 byte であり、double型 だと 8 byte で扱える数値である。

可能無限の立場は、領域として「無限 byte」であり、その中である値をもつことができる。

無限型 b;

と考えればいい。

値は、ある値であるが、領域が無限にある。

しかし、実無限の立場は、値自体に「無限」という値があることになる。

つまり、上記において b に「ある値」(可能無限)ではなく、「無限という値(完結した無限)」(実無限)を作ってしまったのである。

例えば、

0.99999・・・ と 0.99999・・・9 は同じだろうか?違うのだろうか?

0.99999・・・ の最後の数字は、9以外はおかしいだろうから、同じとも言える。しかし、最後の数字は存在するのか?無限に続くのであれば最後の 9 以降はどうなるのか?

こうした問題は、「記号」の先に観ている対象が、数学的存在対象として「はっきりしない」のが原因である。つまり、「記号」を観ていることにより、実際の「対象」が様々に解釈可能である、という状況にある。

「0.33333・・・」というのは、実無限解釈であれば、そういう存在値はない。

しかし、1/3 を 10進数で表記したとき、小数 1桁目から順番に計算したときに計算可能な範囲での値(可能無限)ということであれば、存在する。

コンピュータでは、

0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 + 0.1 = 1.0000001192

こうなることもある。

これは、コンピュータは2進数で値を扱うので、10進数の 0.1 は 2進数 で表現できないことに原因がある。従って(領域を大きくとっても)近似値になる。

これと同様に、1/3 というのは 10進数では「表現できない」。無理に表現して、「0.33333・・・」と書いても、(実無限解釈であれば)これは値ではない。

(実無限解釈において)0.33333・・・ に 3 をかけと、0.99999・・・ と説明されるが、これも疑問である。

例えば、円周率 = 3.14159265・・・ であるが、

  3.14159265・・・
× 3.14159265・・・
---------------

を考えればわかるように、10進数で無限に続く数を10進数の「答え」として計算する方法はなく、近似計算しかできない。計算するならどこかで区切らないと無理であるが、どう区切ればいいのか?

そして、どこから計算するのか?前からなのか後ろからなのか?

  0.33333・・・
× 3
---------------

これは、小数1桁目から「計算していくことができる」ように「記号だけ」をみれば思えるが、無限に続く小数の掛け算の方法は、決定したものではない。小数の最後からは計算できない(無限の先なので到達できない)が、何故小数1桁目からは計算することができるのか?

この計算方法は、記号中心型でありイレギュラー方式である。つまり、一般化できない特殊計算方式である。

小数1桁目から「計算していくことができる」というのは、「計算し終わる」のであればよいが、「無限に終わらない」。つまり「無限に計算していくことができる」と「無限に計算し終わらない」と両方成立している。後者が「忘れられている」。

「計算の積み重ね」の終了→「計算結果」であるところが、「計算の積み重ね」→「計算結果の積み重ね」になっている。「計算結果の積み重ね」が終わらない。

「数学的事態(値)」ではなく「記号」を追いかけていることにより「錯覚」が発生している。また、「実無限」と「可能無限」の解釈が混在し、混乱を招いている。

結論として、0.33333・・・ は、実無限解釈では「存在しない」となり、可能無限解釈では「 1/3 ≠ 0.33333・・・ 」となる。

(1) 1 = 0.99999・・・
(2) 1 ≠ 0.99999・・・
(3) その他

これも、実無限解釈では、

(3) その他(0.99999・・・は存在しない)となり

可能無限解釈では、

0.99999・・・ 自体を何かから導く(構成する)ことができれば、やはり (2) 1 ≠ 0.99999・・・ と考えられる。

循環小数の定義は、一般に実無限であるが、可能無限ともみることもでき、定義に問題がある。

円周率 = 3.14159265・・・

この右辺も、完結する値(実無限)としては存在せず、10進数で表記した場合の計算可能な範囲まで(可能無限)としてある。従って、「=」は正しいとはいえず「便宜上」と考えた方がいい。



前回書いたように、

構成派は、数学的対象を人の直観、構成により「与えられる」場合のみしか認めない。
実在論派は、数学的対象を人の直観、構成から独立して存在すると考える。

「直観」とは「直感」ではなく(その意味が含まれることもあるが)、「直接的に観る」「直接的に意識に与えられている」ということであり、「数学的理念存在」を「直接観る」ことである。

形式主義は、

「直観」 → 「記号」

であるが、直観主義は、

「直観」 → 「記号、言語」 → 「対象(数学的事態)」
「直観」 → 「描かれた図」 → 「幾何対象」
「直観」 --------------→ 「対象(数学的事態)」

ということであり、「記号」中心から「数学的存在」中心への転換である。

例えば、ノートに書かれた曲がり気味の直角二等辺三角形でも、実際に数学的対象として「観ている」のは、幾何学の理念としての直角二等辺三角形である。

ノートに書かれた直角二等辺三角形も、想像した直角二等辺三角形も、対象としている理念は同一であり、いつどこででも同一である。理念なので、線幅というのは本当はない。

実在論派(主に形式主義)の考えでは、「記号」の先の対象が「不明確」なことがあり「記号規則」しか与えられないので、数学の正当性の根拠が「与えられない」または「循環」することがある。従って、様々なパラドックスが現れる。

例えば、「 ∞ 」という記号であるが、この「記号の先」に「観ている」ものがその「対象としているもの」である。記号だけではこの「対象」が何かが曖昧である。

「カントールは数学に実無限、あらゆる限界を超えようとする可能性あるのみならず、実際それを越えてしまったと見なされる量を導入しようと企てた」

「無限とは哲学者によって生成と呼ばれるところのものであった。数学的無限とは、あらゆる限界を超えて増大する可能性をもつ量というに過ぎなかった。すなわち、あらゆる限界を超えてしまったとは言うことはできぬ、ただあらゆる限界を超えようとするものであるとのみ言うことのできる、ある数量のことを指した」
(ポアンカレ)


「非確定的と見なされねばならぬ定義は、循環論法を含む定義である」

「定義は、定義される対象の存在を主張する」
(ポアンカレ)

数学的対象として存在しない「定義」、あるいは同じ事であるが、「定義A」の根拠が「定義B」であり「定義B」の根拠が「定義A」と循環し、「定義A」も「定義B」も数学的対象として存在しない場合、これは「循環定義」となり根拠づけられたものとは言えない。

端的に言うと、これは(存在ロジックと離れた)「宙に浮いた定義」である。

定義は「定義される対象の存在」が最終的に与えられていなければならない。

「実数」の定義として、一般に

「実数は様々な量の連続的な変化を表す数の体系である。実数全体の空間は、位相的には途切れのない完備性とよばれる性質をもつ」

「実数の集まりを幾何学的に表示する方法として数直線があげられる。これは実数 0 に対応する原点とよばれる点を持った一つの直線で、直線上のそれぞれの点と原点との向きをこめた位置関係が各実数に対応している」
(2008.01 Wikipediaより)

この定義は「線分は無限の点で満たすことができ、点の位置に各実数は対応し、実数全体は連続的に途切れない」ということである。この説明に違和を感じるか否かである。ここにも「構成できない完結した無限(実無限)」の定義が内包されている。

線上の同じ点以外の2点間はいつも無限に点を打つことができる。打たれた点の間にも無限に点を打つことができる。

しかし「無限な点を打ち終わる」(実無限)とは言えない。「無限に点を打つことがいつまでも可能である」(可能無限)というだけである。そしてこれは「無限に点をいつまでも打ち終わらない」ということと同じである。

点をたしても線にはならない。(というより点をたすことはできない)

「実無限」も「実数」の定義も実は定義に対応する存在が与えられていなく、「どの説明も」存在しない定義が循環している。

0.33333・・・など「実無限の実数」の根拠は「実数の定義」で説明され、「実数」の根拠は「実無限」である。

「実数という数のクラスが初めてはっきりと取り出されたのはカントールによる集合の研究においてだった」

「構成方法に自明でない手続きが含まれるため、実数の空間は数学基礎論の観点からも興味深い性質を持っている」

「実数の体系の持つ超越的な性格は集合論の初期から様々な数学者の嫌悪の的となった」
(2008.01 Wikipediaより)

数学において「定義A」の根拠が「定義B」、「定義B」の根拠が「定義A」で説明されることがある。これは「よい説明ではない」が、しかし、「どこかで実は数学的存在が与えられている」場合と、「与えられていない」場合がある。前者と後者の区別が意識されていない場合があるが、問題は後者である。

プログラム言語というのはいくつもあり、今後もいくつでも作ることが可能であり、言語体系は「ある決まった正しい体系」というのはない。では、どんな「無茶な」言語体系でも作りえるのかというと、それはできない。根拠となる存在ロジックが与えられないところは「動かない」。

(1) 1 = 0.99999・・・ という解答は「実数の定義」と「実無限定義」の存在しない「循環定義」を根拠とし、疑問である。

この定義を元に体系学習すると、定義には疑問を持ちにくい。定義に疑問をもつのは哲学的な何かが必要である。

(次縞で根本的な点について更に説明する)

実数の定義については直観主義者により異議が唱えられているが、結局「1 = 0.99999・・・?」の問題はここに行き着く。しかし、何故これが問題(矛盾)なのか合意が得られにくい。

これらの定義は現代数学に根を下ろしている。直観主義は「過激な帰結」(ワイル)なのだろうか?実は根は一つではないのだろうか?実無限と実無限を内包した定義である。しかし、それは拡がっている。

「現実性」「便宜上」の判断というのもあるが、直観主義の考えが単に理解されず「近年理解されてきた」ものと思われる。

直観主義は、思想的でも、派閥的なものでもない。実無限は、数千年数学で1世紀くらいである。

数学は、一応基礎的原理であり、現実の実用論、経験論とは異なる。数学自身の原理でもあり、応用・実用のためにもあり、科学、工学、経済も数学なしに成り立たない。分野にはその分野の特性がある。

歴史など事実集積的な話は、様々な見方により「おおよそのところ」「妥当な線」として枠広く時代においてあり、ある程度解釈相対性はある。経営なども試行錯誤であり必ずしもロジカルには進まない。

しかし、数学は理念的な抽象対象であり、永遠性が確保されるため、「矛盾」は何年たっても「永遠矛盾」である。従ってこれは永遠に蒸し返される。

「数学において存在という語のもつ意味は、矛盾がないということである」(ポアンカレ)

(本来の)直観主義数学は単に矛盾をとるだけであり、コンピュータが「機械的」に行うことを「机上で」行うことである。それを行わないと、存在根拠のない「定義」によりパラドックスは避けられない。

コンピュータ系の人が「直観主義」の立場をとる傾向にあるのは、「記号」(文法)より「数学的存在」(値、実体)の整合を現実場面で気にせざるを得ないからである。

ポアンカレの言葉は簡素でさりげないが、とても見抜かれたものである。実は解決されている問題も多く、科学・数学哲学では頭一つ抜けている。

相対性理論その他についても、著作で根本哲学からその先の進路についてかなり述べられている。相対性理論の混乱も創始したポアンカレの構成的な根本発想が抜け落ち気味なのが原因の一つと思われる。

哲学を忘れた学問は、糸の切れた凧になりかねない。(哲学は凧のない糸のようだが・・・)


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不完全性定理と直観主義 (4/4) [数学系]

§ 超越論的認識論

直観主義系統の人のベースには、超越論的(観念論的、構成的)な認識論がある。

この「哲学性」が受け入れがたさの一因となり、認識論は記号のようにわかりやすく目に見える「対象領域」ではないので、理解が得られにくい。

自分の「認識の働き」を認識するということは、一見何を行っているのかよくわからない。

しかし、人は、例えば「記憶」「想像」「知覚(視覚、聴覚、触覚など)」を分類している。それは「目に見える」ものではないが、洞察している。

「意識の働きの本質」など捉えられるわけがない、という人がいれば「記憶では~・・・」ということも言えないはずである。それは意識の働きを本質区別している。触覚と聴覚を区別できない人はいなく、深い部分は本質洞察力、判断力、分析力の問題である。

「本当は誰も、「理念」や「本質」を見ているのであり、思考の際にはそれらのものを操作し、本質判断を遂行している。それでいて、自分たちの認識論的な立場から、解釈上除去しているだけなのである」(フッサール)

「感情…」「心理…」「経験…」「感性…」「芸術…」これらの言葉も本質判断であり、理性的判断である。しかし、(どちらかというような)二元論的思考にとらわれていると、解釈上で理性的判断していることが除去されることが多い。理性的判断というのはそれらを否定しているわけではない。

ある言明を正当であると主張する場合、人はその判断根拠をもっている。言葉に「根拠などない」という人も、「根拠などない」という言葉に対する確信は持っている。もし、その確信もなければ「自らの言明はデタラメ」あるいは「いい加減」と自分で言っていることになる。(日常生活ではなく学的な意味である)

アプリオリな本質論とは、「いかなる」思想の人でも実はそれに従っている、ということである。誰かどこかにあるのでなく、それぞれの中にあり、重ねるのでなく、知識一切捨てても残りから(洞察として)見えるものである。本当は何もわかってないということや愚かさも見えるのである。

個々人はある時間、地域、個の実存として生き、それぞれ(60億人いれば60億の)偶然、固有、ある限定された問題を抱える。そこには様々な考えが交錯するし、個々人がどのように生きるかというのは固有の問題が大きく関係する。

本質論というのは普遍として言える部分だけであり、それ以外を排除している訳でなく、単に(根本哲理は)それでないと「誰かに都合の良い、思いこみの、ある事例を捉えた論」にしかならなく、論理として矛盾するというだけである。(誤解されやすい言葉であるが)希望も絶望もそもそも関係ない。

超越論的な認識論に深い理解を示すのは「数学者」か「数学系哲学者」の人である。しかし「数学界」でも「観念論派(構成派)」と「実在論派」に分かれ、前者は少数派である。そして科学・技術の先進化、大規模化、専門化と共に哲学から離れていく。

§ 構成的数学

直観主義系統の人でも考えは多少異なる。直観主義を含んだ大枠として構成主義、構成的数学がある。ポアンカレ、ワイルなどの可述主義などもこの範囲である。

構成主義派は、数学的対象を人の構成、直観により完全に与えられる限りのみ認める。

実在論派は、数学的対象を人の構成、直観から独立に存在すると考える。

ポアンカレの言うように、両者はほとんど分かり合えない。

非構成的な方法というのは「全体は見えている」「全体はある」と仮定して行われる。しかし、その全体の中で無限、無限悪循環があると、「一方でなければ、他方」という排中律の無条件な使用は問題を生む。「見えてない」ものを「見えた」とすると、「問い方により」問題が発生する。

つまり「全体」は内部に「無限」があると、無条件には「見える」と仮定してはいけない。

「見える」というのは「終わりが見える」ということであるが、無限というのは「終わりなく継続する」ことを意味し、「対象値の概念」ではなく「ある方向への継続を示す概念」である。無限は、「ステップの継続の無限」「時間的な無限」を仮定している。

(従って 「 ∞ + 1 = ? 」 「 ∞ - ∞ = ? 」 という問いは 「 ア + 1 = ? 」 と同様ナンセンスである)

構成的数学では、証明を行うときには、解の「存在」を保証し、解を求める手段を具体的に提示する。

構成的な確実な対象や推理だけを用いて結論を導くのでパラドックスは生じない。

もしパラドックスが現れるなら、その直観主義-構成主義は不備があると考えてよい。直観的明証から構成的に理念存在を確証していく構成的数学においてパラドックスとは無縁(なはず)である。

哲学的側面の中心はポアンカレとブラウワーであり、直観主義を具体的に明確に打ちだしたのはブラウワーである。

直観主義は人間的数学であると言われる。

構成的数学は構成的現象学と平行し、構成的数学世界は構成的現象世界と平行する。

§ 数学と哲学

普遍哲学はアプリオリなものの発見であるが、数学の多くの領域はアプリオリなものとは言えない。

アプリオリな領域は創造的なものではないが、数学はアイデアを合理的に積み重ねていくものであり、意識の構造を解明すれば全部見えるものでなく、拡張性のあるものである。

数学には厳密性が求められるが、それはどういう意味での「厳密性」か、ということが問題になる。ある意味で「思想、志向的」な問題であれば、幅があってもよいことになる。

数学は基礎づけ問題で悩まされていないのだから、基礎づけなどいらないのではないか?という疑問もあるが、これは微妙である。時代の多数決が正となり、悩んでいないだけかも知れない。

数学者は数学を「何でもあり」の拡張性をもつとは見なしていないはずである。そこには自由拡張は認めても、矛盾した拡張を認めないという「規制、合理則」が働いているはずである。

基礎づけはあくまでその「合理則」の明確化でしかなく、恐らくそれがないと人はいつまでもある「違和感」を抱き続ける。

矛盾拡張した数学は認められない。何故なら、矛盾拡張した数学を正当な論理で追求しても結局最後は矛盾しか導かれないからである。そして応用ができない。

矛盾追求は(頭が明晰なほど狂気を生み)苦しいものとなる。戻ってこれない場所へ行ってもなかなか気づかなく、(臨界を越えると体が破壊されはじめ)体の回復が絶望的になってもわからない。その果ては何もないが、それは果てにいかないとわからない。体は何かを告げるシステムになっているが、本当に納得しないと僅かな体力でも考え始める。

結論にパラドックスがある問題は、ほぼ前提に問題があると考えていい。既存の数学の常識においてパラドックスが発生した場合、その常識は疑わしい。

不完全性定理はパラドックスを示すものではない。不完全性定理が指摘するのは、形式主義的-無矛盾性という目標に対してであり、非構成的な方法の拡大解釈に対する警鐘である。

当然、不完全性定理で「数学、論理が死ぬ」なら、不完全性定理自身も「数学、論理」なので、不完全性定理自体が死ぬことになる。

記号規則を根拠とする試みというのは循環論になり、また同様に、言語規則を根拠とする試みも循環論になる。そして、必然的に相対主義~懐疑主義的になる。

§ その後の直観主義

以下は、様々な文章からの抜粋的なものである。

直観主義は直観主義論理としてハイティングにより形式的に体系化されている。

ゲーデルやその他の人により、算術での古典数学の標準的形式体系の各定理は、直観主義論理のハイティングの形式体系の定理へ翻訳された。つまり、古典論理は直観主義論理に組み込めることが証明された。

直観主義論理はBHK解釈(Brouwer, Heyting, Kolmogorov)として整備されたものが標準となっている。主に、ハイティングの流れにある。

ブラウワー直観主義と排中律排除の形式化に重きを置いたハイティング標準の直観主義論理では意図するものが異なっている。直観主義論理はブラウワーの哲学性が大きく削られ、数学的形式性が強調されている。しかし、それにより扱いやすいものになっている。

ブラウワー直観主義と直観主義論理(BHK解釈)の違いは、ブラウワーの直観主義数学が具体的にどのように行われ、それと直観主義論理で行った場合との違いを検討すると見えてくるのかも知れない。

それ以外にも様々な構成主義の立場、コンピュータ(計算機科学)系の立場などもあり、怪しいものもある。

直観主義は一つの理想主義であり、明瞭で強力なものであるが、それを数学全体に適用するとなると、様々な数学の改訂を要求する。

というのが常識的であるが、近年の研究ではそれはかなりの誤解であり、古典数学も成果を捨てる必要は全くなく、直観主義-構成主義はコンピュータ系を中心に見直されている。

コンピュータ系で直観主義が復活してきたのは偶然ではなく、数学的矛盾というものがいかに発生するのか厳密な具体的数学として示すのがコンピュータである。コンピュータは矛盾があれば動かないので、本来の数学的矛盾とは何かを教え、机上チェックから実行チェックに移す。

具体的数学により数学の基礎問題が露呈されることは、ポアンカレによって既に予言されている。それは必然の流れだからである。

例えば、コンピュータでの実数(計算)の扱いや無限の概念を考えるだけでも、多くの示唆が得られるはずである。コンピュータは数学の拡張過程を1から作り上げ、実装しないといけないので数学的原理とは何かについてよく教える。

「実装できない」=「矛盾」ではないが、「矛盾」があれば「実装できない」はずである。コンピュータ上の数学が正という意味では必ずしもない。

古典論理と直観主義論理は相互に変換可能なことはゲーデル~コンピュータ系により論証されている。「古典論理+直観主義論理」でいいなら、ワイルの懸念は払拭されることになるが・・・

ワイルの懸念が古典論理、古典数学の簡単な原則が適用できないというならば、矛盾がない場合、古典論理=直観主義論理(相互変換可能)なのでこの懸念は解消されることになる。

非構成的な方法(主に背理法)でも、矛盾となる場合と、矛盾とならない場合がある。古典数学では、矛盾ではないから特に明確化せずに非構成的な方法を使用してきた。しかし、パラドックスが発生するような分野が現れだしたときにその基礎が問われることになる。

直観主義は数学から矛盾、パラドックスを排除する方法を明確化した。しかし、非構成的な方法でも、矛盾がないならば、構成的な方法に変換可能なのであり(古典数学での)非構成的な方法も排除する必要はない。問題は、矛盾が発生する非構成的な方法である。

以上の考えが正当ならば、問題は「一部」となり、それを改善すると数学全体は頑強となるはずである。

古典論理、BHK解釈、カリー=ハワード同型対応、これらの関係を解きほぐすと、そのことがよくわかるのかも知れない。

そして、様々な領域において、事態は更に(必然的に)進行している(はずである)。主に理系の多数の先進分野は哲学と密接に関連するが、独自展開でありほとんど哲学の影響はみられない。

直観主義-構成主義も、ある程度完成された姿でないと理解は得られず、数学にとって利用できるものでないと「哲学的」ということで混乱を与えるのかもしれない。(恐らく、ブラウワー直観主義をもう少し拡げた形での構成的数学が基本になると思われる)

これらについては私の情報量、実理解の範疇を越え、恐らくこうだろうという話である。表面からはわからないことも多く、皮相的でなく本来具体的なものでなければいけない。

しかし、枝葉は多数あっても、根元から幹は見えているはずである。垣間見える情報は必然の流れを示唆しているからである。


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不完全性定理と直観主義 (3/4) [数学系]

§ 例1

例えば、 5 という数がある。

特に何も明記されていなければ、暗黙の定義で10進数である。

2進数では 101 であり、漢字では 五 、英語では five である。

これらは、全て同じ数学的理念対象を指している。

それを [5] と表してみる。

( [ ] は数学的理念対象、数学的事態を指す。特に記号の説明がなければ暗黙のものを指すとする。)

同じ数学的理念対象 [5] であるから、記述表記(記号)は相互に変換(翻訳)可能であり、何が誤りで何が正しい変換か理解可能である。

5 + 10 = 15

暗黙の算術記号定義で、+ は「加法」を示し = は「左右等しい」ことを示す。

五に十を足すと十五になる

と書いても、「数学的」には同じ意味である。

つまり、 [5] [+] [10] [=] [15] という対象的理念の連続であり、[5 + 10 = 15] という数学的事態であることを意味している。

5 + 10 = 15 というのは表示形式であり、「一義的」に数学的事態も指示している。

5 や + の意味を知らない人は、表示形式を見ても、数学的事態は理解できない。

勿論 + を別の意味として定義すれば、別の答えとなる。意味が定義できなければ、解答不能である。

「 + 」は「加法」と説明されるが、これはあまりよい説明ではない。同じ事を別の表現で表しただけだからである。「 + 」や「加法」が何を意味するのかというよりも、数学的操作として何を行うのか、人は知っているということである。

「 + 」は当たり前すぎてわかりにくいが、「 lim 」や「 log 」や「 Σ 」といった記号を初めて見た場合、それを理解することがどういうことか考えればいい。

人は、それらの記号を「言語意味」として理解をしているのではなく、「数学的操作」として「何を行うのか」わかって初めて「理解」となる。

コンピュータで例えると、コンピュータ上のデータは全て 2 進数 (1 bit) の on, off でメモリやハードディスク上に格納されている。処理される単位は 1 byte (= 8 bit)なので、

[5] というのは、 1 byte では、00000101 と格納されている。

これを、10進数で表示すると 5 であり、漢字では 五 、英語では five となる。

[ ] はコンピュータ上では内部データ、機械的ロジックの部分に当たる、と考えればいい。

「1+1=2は正しいか?」という問いは、あまり意味はない。

暗黙(通常の10進数での算数、数論)の定義上では正しい、というだけであり、定義や意味する単位を変えれば、正しいとはいえない(正しい場合もある)、というだけである。

自然数が1の加算で定義されるなら、「1+1=2」はその範囲内であり、自然数の加算や乗算は全て自然数の定義内での演繹である。

数学的命題の正当性は、対象とする数学的事態の合理性で判断しているということである。

上の例では、「記号」と「数学的事態」は1:1に対応している。つまり「記号」を見れば「数学的事態」は確定、認識できる。しかし、他の命題を参照している場合などは、1命題の「記号」を見ても、必ずしも「数学的事態」は確定されない。

他の命題を参照している場合でも、悪循環とならないような場合には「数学的事態」は確定できる。しかし、事態に矛盾があるかどうかは個々の命題だけでは判断できない。

§ 例2

幾何学のある証明問題があるとする。

それは、文章で書かれているとしても、実際に解くときには、幾何図形を頭で描いたり、ノートに書きながらそれを解いていく。幾何図形に対する直観的なもの、推理的なものなしにそれを解くことは難しい。

問題の意味を理解するために言語が用いられていたとしても、実際に幾何図形を描くことができれば、後は、言語や記号を特に用いなくても、幾何図形の操作だけで(頭の中だけでも)解答できる場合は多い。証明するときには、後で、言語や記号などの説明を用いるとしてもである。

逆に言うと、幾何学の問題は「幾何学的直観」がなければ、解答まで導くことは極めて難しいのであり、よく言われるように、ヒルベルトの「幾何学基礎論」も「直観」なしに理解することはできない。

直観的推理なしの幾何学というのは人間には理解しがたく、どこに向かっているかよくわからないはずである。

数学する人が目的としているのは、対象とする数学的事態、幾何学的事態の合理性、合目的性であり、それは構文的、形式的なものだけの合理性ではない。

「数学的推論に随伴する言語の規則性を、数学的推論そのものに帰するべきではない」

「数学的言語、特に論理は、それ自体では、決して数学的事態を演繹することはできない」
(ブラウワー)

テレビ番組で、図形を操作するような幾何学の問題を公理から導いている人はいない。幾何学的事態を理解できる範囲で言葉の意味を知っていれば十分であり、公理を特に知らなかったり、あやふやでも解答を導くことはできる。

解答への道は、ほとんど直観的な推理で行われているのであり、結論が出た後での「説明」もアバウトでバラバラなこともある。しかし、それによって解答の正確さが損なわれるわけではない。構文的、手続き的な説明の正しさが問題になっているのではなく、目的への推論の正しさが問題になっているのである。

§ 例3

「ここに携帯電話がある」という言葉について考える。

正面を向いていれば「真」の場合でも、横を向けば「真」とは言いにくくなり、後ろを向けば「偽」であり、隣の部屋へ行けば「偽」である。

つまり、記号や言語規則からの意味「だけ」で人は「言葉」の判断をしている訳ではない。

「ここ」という言葉は直観的にある範囲を指示し、その周囲は曖昧である。「ここ」に適合する範囲で「携帯電話」があると「充実的な合致」意識が与えられる。

現実においては、「言語」を通じて人は「ある事態の思念」をしているのであり、単なる言語意味だけでなく、何らかの「意識の働き、知覚、一般意味と対象との関係、意味の充実的な合致など」を関係併せて(総合的)判断の根拠としている。

§ 形式主義と直観主義

「数学では特に、私たちが考察するのは、採用した把握の仕方に従って、その形が直観的に明晰で認知可能な、具体的な記号それ自身である」(ヒルベルト)

形式主義では、「記号」という「伝達形式的」「手続き的」「規則的」な「目に付くもの」を中心に数学を考えている。

しかし、それは数学の一側面である。数学で中心となるのは「対象的」「事態的」なものであり、それに向けての推論である。

「直観主義の数学が、時間の働きの知覚にその起源をもつような、心の本質的に無言語的な活動であることを認識すること」(ブラウワー)

「直観主義数学者にとって、数学は人間精神の産物である。彼は日常言語も形式主義的言語も伝達のためだけに用いる。すなわち彼の数学思想を他人あるいは自分に追思考させるためである」(ハイティング)

幾何学などを考えればわかるように、数学的事態は無言語的な推論によっても成立する。

「数学的公理を規約により真とすることで、数学的直観や経験的帰納を除去することは不可能である」(ゲーデル)

公理を独立的に整備することも数学の一側面として重要である。ただ、形式主義の無矛盾性(命題、記号列による排中律が成立する体系)というのは、公理体系内で数学を演繹化、機械化する志向であるが、それは数学を逆方向に見ている。形式的無矛盾性を求めると、無矛盾になるようにしか公理を設定できない。

公理により、全推論パターンの排中律を成立させ矛盾命題を取り除かなくても、公理からの推論を矛盾のないように構築していけば問題はないのである。

公理と公理からの推論命題が矛盾なく「対象存在」を一義的に指示するような数学分野であれば、無矛盾性は成り立つかも知れない。(ここには「事態の無矛盾性」と「命題形式の無矛盾性」という二つの一致関係がある)

しかし、「メタ目線」で形式的無矛盾な公理枠、排中律体系を作ることが「どういう意味で」有用なのか考えなければならない。

「数学上の発見とは、既に知られた数学的事物を用いて新しい組み合わせを作ることではない。作りえる組み合わせは限りなく、その大多数は全然興味のないものだろう。発見するということは、有用な組み合わせをつくることにある。発見とは識別であり選択である」(ポアンカレ)

プログラミングの例で言うと、プログラム言語体系の整備は必然であるが、それは目的とする実行プログラムを豊かにするための整備である。言語体系からの自動化システムが目的とされているわけではない。

チェスや将棋において「人間」対「コンピュータ」の勝負がよく行われる。しかし、本当は「人間」対「機械をもった人間」であり、コンピュータは全て人間が作り、プログラムは人間が改良に改良を重ねたものである。

プログラムは「人間のプログラミング」+「機械的演繹」によって実行される。プログラミングは完全な自動化はできない。自動(学習)化しても自動(学習)化するプログラムが更に必要になる。コンピュータも人間の推論に支えられている。

「駒の動きを知ればチェスの指し方がわかるわけではない。論理によって与えられた材料を組み合わせる仕方はいくつもあって、我々はその中からあるものを選び出さなければならない。真の数学者は、この選択を巧みにやってのけるが、これはある正確な本能によって、何かは知らぬが更に奥深く隠れているある数学についてのおぼろげな知覚によって、導かれているがゆえである。この隠れた数学こそ築きあげられる建物に価値を与える」(ポアンカレ)


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不完全性定理と直観主義 (2/4) [数学系]

§ 嘘つきのパラドックス

嘘つき、自己言及のパラドックスとして語られる命題は、

A: 「この文は偽」

という基本形を内包する。

「主語+否定判断」であり、更に主語はこの命題自身を指している。だから、代入すると「「主語+否定判断」+否定判断」となり、主語に対して否定判断と二重否定判断をもち矛盾命題となる。

形式的体系論(型の理論)により、A を論理式の形にすると、

B: ¬p  ← 1階の対象(論理式) p に対する否定

となる。そして p は B 自身を指している。

従って、代入すると、

¬(¬p)  ← 2階の対象(論理式) p に対する二重否定

で、p に対して「否定 かつ 二重否定」となる。

(数学的に考えると)再帰性があるので p への代入は無限に繰り返される。

ポイントは1階と2階以上(高階)の「同一対象 p」に対しての判断の違いであり、その悪循環構造、事態矛盾である。有限ステップに制限しても矛盾である。

§ 相互言及

C: 「命題 D は誤り」

D: 「命題 C は正しい」

上記2命題において、それぞれの命題は形式的には問題はない。
しかし2命題は外部参照型の循環構造になっている。

C を「真」とすると、「命題 D は誤り」なので、D 文をここに代入すると「「命題 C は正しい」は誤り」となる。

従って、これも命題 C に対して、「真」と「偽」の対立判断となる。(命題 D も同様である)

上記2命題も、「同一対象(主語)」に対して、構文上「判断が二重的対立になる」という、対象と判断の問題である。そして、無限循環構造をもつ。

これは「形式」の矛盾ではなく、「対象」と「判断」に悪循環構造が現れる「事態」の矛盾である。

§ 高階の悪循環

型の理論(述語論理)で「2階以上の高階の対象」は、「ある対象」に対して再定義、多重定義という性質をもつ。これが問題を生みやすい原因となる。

パラドックス問題は、カントールやラッセルやその他、主に集合論から出現している。

集合論には必然的に「2階以上の高階の問題」が含まれる。何故なら、2階の対象は、1階の対象の集合であり、3階の対象は、2階の対象の集合だからである。

集合とは、要素に対しての分類であるが、分類と要素の関係矛盾を防ぐ方法が必要となる。分類の「要素」が「ある分類」により変更になる場合には矛盾が発生しやすくなる。

例えば、「本ブログ内の命題は、xxxである」と書くとする。

「本ブログ内の命題」は分類であり、「各命題」が要素である。この文を書く前には要素は n 個であり、書いた後では「文自身が要素になるので」 (n + 1) 個であり、その後も増えていくので (n + 1 + 不定) 個である。ではこの分類に対する要素はいつ決定されるのか?

分類と要素には単純に考えてもこの関係矛盾の可能性が含まれる。

集合論や数学的帰納法、その他高階を許す場合には悪循環問題についての考慮が必要である。

第1不完全性定理は、「この論理式G(ゲーデル文)は証明できない」という論理式Gが作れるという問題であり、「嘘つきのパラドックス」と同様の構造をもつ矛盾命題が現れる。

これは2階以上の高階型の悪循環であり、同一対象の論理式G(ゲーデル文)に対する二重判断(矛盾判断)である。

不完全性定理が示しているのは、「排中律」を前提した「自然数論を含む高階型の」公理体系においては、数学的事態の矛盾をもつ命題が現れるのであり、それを取り除く公理を追加しても新たに矛盾命題が現れる、ということである。

元々、不完全性定理は非構成的な証明方法を採用し、前提している。結局、それは非構成的な方法の「不十分さ」「曖昧さ」を証明している。

こうしたパラドックス、悪循環の問題を解消するために、数学の基礎づけが要請されたが、形式主義の方法がこの悪循環を根本的には解消しないのはブラウワー(や既にポアンカレ)や不完全性定理の示すところである。

それは「直観」を排除し、数学を実在的客観、機械的形式として捉えるような志向に対する警鐘的意味をもっている。

フッサールの超越論的論理学が「示唆」しているように、ある「命題」の判定は、その命題が「論理的に閉じている」「事態の矛盾がない」ことが判断条件である。

従って、ある「命題A」が「別の命題B」を参照している場合などは、命題Bへ辿って(遡って)、そして事態矛盾(同一対象で判断が異なる、関係矛盾など)、命題が閉じない(無限循環)などの矛盾がないことが確認されて初めて命題の判断が可能になる。

「命題A」が自己参照(自己言及)している場合は、B=Aと考えてもいいし、「命題A」のコピーを参照していると考えてもよく、これは同じ事である。

§ 排中律

排中律は、命題aが 「a」 であるか 「aでない(¬a)」 かどちらか一方が成り立つことを主張する。

しかし、ある命題aについて、その命題が「意味不明」であったり「真偽では言えない価値的な命題」であったり「矛盾命題」である場合もある。

数学的命題においては、ほとんどの場合それらは「排除」される。また公理上の推論命題においてはほぼ「排除」される(ように公理が設定される)。しかし排中律が全てにおいて成り立つことは自明ではない。

「真」か「偽」が成り立つことが、数学では「命題」と定義していることが多いが、この定義は曖昧さを残している。

「証明できない難問題」や前記のように悪循環を内包した「形式的には問題のない命題」「各種のパラドックス問題」、不完全性定理が示すように「公理を追加しても新たに矛盾命題が発生する場合」もあるからである。

§ 諸原理の原理

「一切の諸原理の中でも肝心要の原理がある」

「それは全ての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であること」

「この一切の諸原理の原理に関しては、考えられうるどんな理論も、我々を迷わせない。何故なら、どんな理論も、当の自分の説く真理そのものを、再び原的所与性から汲み取ってくる以外にはないことを洞察するからである」
(フッサール)

ある理論があるとすると、理論は「独立して単独に」存在するように見えるが、「理論に対する直観」がその正当性の源泉にある。

もし「数学的規則、形式」が「直観」なしの「数学的規則、形式」に根拠づけられるならば、循環であり、その根拠(数学的規則の根拠)は不明なままで、根拠を求めて彷徨うことになる。

「数学的規則、形式」の最終的根拠は、数学的事態に対する「直観」によるものである。(普段は意識しなくても)そこに遡れることが、数学的言明の正当性を根拠づける。それは「規則」の「外部」であるが、そうした人間的直観を切り離した「規則的体系」は実は循環論になっている。

「数学の述べている全ての命題が、形式論理の諸規則によって次々と演繹できるならば、なぜ数学はひとつの巨大なトートロジーに還元されないのか」 (ポアンカレ)

数学が「規則」により全て演繹されるもので、何ら発見がないならば、数学はただの機械的演繹である。では、その規則を決めたのは誰なのか?その規則は何によって決められたのか?規則に不備があるとすると、不備というのは何により判断されたのか?

数学においては「発見」と「演繹」、「直観」と「論理」は両輪である。

「定義は、その用語においても、矛盾を含まず、先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明し得なければ正当なものとは認められない」

「公理は単なる定義、勝手な規約ではなく、確かに正当な規約である。公理群については私はそれを正当だと信じている。何故かと言えば、それは親しいある種の経験的事実と最もよく符合するものであって、最も便利なものだからである」
(ポアンカレ)

定理などの習慣的になっている「知」は、普段疑われたりはしない。しかし、その定理も遡れる、確認できることで定理たりうる。定理とは、そのような疑いを反復的、客観的(他者による検証)、歴史的に乗り越えたものであるから、疑う根拠が希薄であり、もし疑っても自分で確かめることができるものである。

ピタゴラスの定理も、自分で確かめることができるし、懐疑することも可能である。しかし、簡単な定理で歴史があるものは、最近解明された難解な証明問題などに比べると、問題を見つけられる可能性は限りなく0%に近い、というだけである。


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不完全性定理と直観主義 (1/4) [数学系]

ゲーデルの不完全性定理は、関係本を読んでみてもその解釈については様々である。

「数学」的側面はいいとしても、問題は「哲学」的側面である。
(この問題は数学面だけで理解することは難しく、哲学問題と平行する)

最も同意できたのは、直観主義者ブラウワーの次の言葉である。

「不完全なのは当たり前で、つまらない」

※ 問題の性質により、内容や煩雑さから、ある段階の理解を前提にする

§ 経緯

不完全性定理は次のような経緯を辿っている。

発端は、ブラウワーの直観主義とヒルベルトの形式主義の数学の基礎づけ論争である。

ブラウワーはヒルベルトに対し、形式主義の「無矛盾性の証明など不可能である」と論文「形式主義に関する直観主義的考察(1927)」で警告する。

「形式主義数学をその無矛盾性の証明によって(内容的に)正当化することは、悪循環を含む」

ゲーデルはその「形式主義的な無矛盾性の証明が不可能である」ことを証明しようと試み、成功する(1931)。これはブラウワーの論文や講演などをヒントにしたようである。(ブラウワーの考えに全く同意したわけではないようだが)

それに対する当時の反応として次のようなものがある。

「ゲーデルの証明は、数学的厳密性の最も厳格な基準である直観主義的規範を満たすものであった」

「数学的主題は、その経験的源泉から遠く離れたり、たくさんの抽象的交配を経た後には、堕落してしまいかねない危険に陥ってしまう」
(フォン・ノイマン)

形式主義派であるノイマンがそのように述べている。

ブラウワーにとっては、不完全性定理の結論は以前から明らかで、元々主張してきたことが数学的に証明されただけであり、「そんなにも多くのことがそれについて言われているのに驚き」を表明する。

「数学は、ブラウワーと共に最高の直観的明瞭性を獲得する」(ヘルマン・ワイル)

しかし、ワイルは同文で懸念する。

「より高いより一般的な理論へ進む場合、古典的論理学の簡単な原則が適用できないことが、結局、ほとんど耐え難い重苦しさになってしまうことは否定できない」

基礎づけ論争としては、(形式主義は維持できなくなり)直観主義の側が優位となった。それは形式主義派も認めざるを得ない。

しかし、もし直観主義を厳格に適用するなら数学が失うものも大きい。

本当にそれでいいのだろうか?

そういう懸念がワイルなどにあり、ゲーデルの工夫やそれ以降の考察にも繋がる。

不完全性定理自体はそう問題ではないが、直観主義の数学への全面的適用は問題であり、話はここから複雑になる。「直観主義で失われると考えられる部分を救うこと」に対する模索である。

「このような過激な帰結を免れる方法はないものであろうか?」(ワイル)

§ 不完全性定理

(数学面は別書に譲るとして)不完全性定理とは何か?

[第一不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、それが無矛盾ならば形式的に不完全である

[第二不完全性定理]

自然数論の公理を含むいかなる公理系も、公理系が無矛盾ならば、公理系の中だけではその無矛盾性を証明できない

※ これらは述語論理(高階を含む)に基づく

公理体系(形式体系)上の命題は無矛盾でなければならない。

公理からの論理的推論により命題「a」が証明されるならば、「¬a」(aの否定)が証明されてはならない。

つまり、公理体系上の命題において「a かつ ¬a」というような排中律違反の矛盾命題が現れてはいけない。

しかし何故、現れてはいけないのだろうか?

そもそも直観主義において「排中律」は無条件に自明なものではないとして拒否される。

従って、「排中律」を前提とした「無矛盾性」というのは「形式主義的-無矛盾性」である。

「無矛盾」でなければ「数学的矛盾」であるというイメージを与えかねないので、「無矛盾性の証明」という言葉は「形式主義的-無矛盾性の証明」と読み替えないといけない。それはヒルベルトの目標であったが、数学の基礎づけ上の一つの立場である。

「形式主義数学の無矛盾性の証明によって、その(内容的)正当化をすることは循環論法を包含してしまう。何故なら、この正当化は「命題の無矛盾性から命題の正しさが得られる」という命題の(内容的)正しさに依存しているからである」(ブラウワー)

つまり、「排中律」を前提に、無矛盾性(公理体系上の命題の排中律の成立)を導いても、それは循環論法(排中律からの排中律の証明)である。その前に、排中律と共に公理群自身が「いかに成り立つか」の説明、証明を行わないといけない。基礎づけは、前提を排したものである。

公理体系上において「矛盾命題」が現れることが問題であるならば、何故それが問題なのかの証明が先に必要である。

というのは、個々の命題の言語規則、記号規則では対象とする数学的事態を「一義的に捉えることはできない」からである。従って、数学的矛盾を全て捉えることもできない。

形式主義の問題点は「命題(文)」での「排中律」を想定したからであり、「対象とする数学的事態」が「成立(存在)するか、しないか」という対象存在志向が希薄である。数学的事態が成立するか否かは、(数学分野の性質にもよるが)命題形式的に一義的には捉えられない。

「全ての数学の形式系に付きまとう不完全性の真の理由は、どんな形式系においてもたかだか可算個の型しかないのに引き替え、高階の型の構成は常に超限的に継続できるからである」(ゲーデル)

このことの意味について以降で説明する。


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