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実存は本質に先立つ? [哲学問題]

サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。

これは実存哲学~現代にまで続く一つの志向であり、我々の実感とも一致する。

しかし、よく考えないといけない。

この言葉は、本質論なのである。

「実存は本質に先立つ」という本質、理念について語っているのである。

この倒錯が理解されうるだろうか?
このことは多くのことを物語るのだが、理解されうるだろうか?


理性批判、意味批判、普遍性批判、本質論批判 [哲学問題]

「反理性」などという理性に対する批判は背理である。理性、論理を使用しながら理性を批判しているのである。自分が批判する「対象」を「批判の根拠」にしている。

基本的に、「理性、論理なし」で、何を批判しようと、それは批判にならないのであり、批判などできない。批判は「誤り」を主張する。理性、論理以外でどう「誤り」を主張するのか?

もちろん「理性」がないと「理性を懐疑すること」もできない

「脱意味」なども背理である。意味を使って(根拠にして)、意味から逃れようとすることは矛盾である。

「普遍性批判」は、「普遍性批判こそ普遍的だ」と主張する。

「本質論批判」は、本質論を批判しながら、それ自身が「本質論」として語っている。

「懐疑主義は、議論において暗々裡に、自分が否定するものを、議論を妥当させる条件として、前提する」(フッサール)


唯物論について [哲学問題]

今、唯物論を唱える人は少ないと思いますが、その背理性について少し書いてみたいと思います。

「一般的な意味での唯物論」ということで、辞書によると、

物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。唯物論的思想は古代ギリシャ初期、中国・インドなどにも現れているが、近代以後では一八世紀フランスの機械的唯物論、一九世紀のマルクスの弁証法的唯物論などが代表的

ということです。

(1)唯物論は観念を根拠にしている

まず、「唯物論」は言語による理論です。理論は人間が観念的に意識、理解して初めて理論となります。従って、「唯物論は観念、意識を根拠にしている」ことになり、背理です。

理論は「書」として物質としてあるではないか?と言われるかも知れません。しかし、動物がその「書」を見ても何の意味もないように、その言語を人が観念的に理解して初めて意味を持ちます。

上記の説明でよいのですが、納得が得られない場合もあるかも知れないので、別の言い方をしてみます。

(2)唯物論は「超越視点」「神の視点」の措定である

眠っている時に、「物がある」ことはありえるでしょうか?
「眠っていても物があるのは、当たり前ではないか」と言う人は、起きている時点で、寝ている時を想像して言っているだけです。

つまり、私の意識が働かないと「物がある」ことなどないのであり、ということは「物がある」とは意識と相関的なものであり、「物自体」というのは、「超越視点」「神の視点」の措定である。

「物がある」というのは主観と分離できない。

(3)唯物論は「永遠の仮説」である

「認識」自体の説明はどこまで行っても物質ではなく、人の認識でしかありません。科学的にどれほど説明しようと、その科学の説明を人が認識しているだけです。(科学はあくまで人が認識できる「観点」による間接的な説明である)

従って、あらゆる認識自体の唯物的、客観主義的説明は無限遡行(無限にそれを認識する「主体のようなもの」を措定して行かなくてはならない)の背理に陥ります。つまり、誰か、何か、未来の科学が、その説明を可能にするなどと無限に措定せざるを得ません。当然その説明も永遠に仮説です。

これは実は神と同じです。神は無限に向かう人間の措定である(だから神は人によってその概念も異なる)ように、唯物論というのは神の視点の措定です。しかし神の視点も、人間が措定した「神の視点」に過ぎない。この両者を唯物論は混同しています。

つまり、「私の中の客観的な視点(=間主観性、経験性が加味された私の視点)」を「私の主観を離れた客観視点」と混同している。

「主観内で構成される客観性」と「主観と切り離された客観」を混同し、そして「間主観」と「(客観主義的)客観」を混同している。

そして、唯物論は、全てを「客観視点」で語りえるはずであると措定していく。どこまで物質で説明しようと、その説明(物質)は認識されて初めて何かである。


独我論問題 [哲学問題]

「他我論」で理解してもらえる思いますが、「独我論問題」というのは基本的にはありません。

「事物」が知覚による超越としての「確信」であるように、「他我」も知覚による超越としての「確信」でしかありません。従って、「他我」も確信の度合いがあり、錯覚もあるということです。

近くの人と遠くの人、声と合成音、テレビの人やCG、アニメなどについて考えればわかる通りです。

自我が「内在」的な知覚、体験として疑いえないものであるのに対し、他我は「超越」的な知覚、体験として疑わしさが残るものです。

「客観視点」に立って、「他我」は証明できない、というような論理はそもそも背理です。


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