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不完全性定理の補足 [論理学]

ゲーデルの不完全性定理は大枠で次のように結論づけられると思われる。

数学の基礎づけとして、ヒルベルトにより「形式主義による基礎づけ」が提唱されたが、それはゲーデルの不完全性定理により退けられた。つまり、「形式化」による「数学の無矛盾性の証明」は不完全性定理により矛盾が露呈された。

ゲーデルが証明したのは、一般に語られがちな「数学の敗北(矛盾)」ではなく、「数学の基礎づけとしての形式主義の敗北(矛盾)」である。一つの立場である形式主義に限界があることを証明したということである。

ゲーデルはそのことをよく理解していた、というより彼の論は「形式主義の限界」を目的にしていたようである。「形式主義の限界の指摘」がいつの間にか「数学(の基礎づけ)の矛盾の指摘」のような話になっていった(面がある)、ということである。


ゲーデルの不完全性定理について [論理学]

以下の文章は「ゲーデルの不完全性定理」(レイモンド・スマリヤン)、「ゲーデルの哲学」(高橋章一郎)を参考にして書いています。直接的にゲーデルの定理を解析した上でのことではないので、問題ないと思いますが、β版として記述します。

基本的に不完全性定理は以下のような内容である。

[第一不完全性定理]
システムSが正常であるとき、Sは不完全である。
(無矛盾な(形式的)公理系Sには、証明不可能な命題が存在する)

[第二不完全性定理]
システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾性を証明できない。
((形式的)公理系Sが無矛盾であれば、その体系内で自身の無矛盾性を証明出来ない)

しかし、「自己言及のパラドックスと超越論的論理学」で書いた通り、形式システム(形式論理)が正常でも、いくらでも「矛盾命題」は作れるのであり、形式論理だけでは論理判断は不十分である。従って、ここでも「超越論的論理学」による考察が必要とされる。

だから、「第一不完全性定理」「第二不完全性定理」も実は当然であり、何も問題はないことになる。

簡単に言うと、「ある形式システムが正常でも(矛盾がなくても)、矛盾命題がいくらでも作れるのは、超越論的論理学で考えると当然である」

ゲーデルも「数学を形式化しようとすると、…日常言語では理解し表現できるが、形式体系内では表現できない命題が生じる。…数学では汲み尽くせないのであり、直観の源泉から汲み上げる必要がある。」と言っている通りで、感覚的にそのことを理解していたのです。

しかし、何故ゲーデルの定理から「理性の限界」ということが語られるのだろうか?
何故「形式論理」の判断問題が「理性」問題と並行的にイコールとして語られるのか?

「理性の限界」という考えには、形式化の完成こそが「理性による完全化」「論理の完全化」であるという前提がある。だから形式化では論理判断できない矛盾命題が現れると、「理性による完全化はできない、つまり理性は不完全である」という思考になる。しかし、「理性、論理」は決して形式化ではなく、形式化はあくまでその一部である、ということは超越論的論理学より明らかである。

「A+B=C」
「AはBである」

Aは形式であり、Aに代入できるものを内容(質)とする。
内容には何でも代入できるとすると、Aは更に「命題、論理式等」を代入できるのであり、論理判断としては、最終的な基体にまで分岐し、遡らないといけない。Aに代入できる条件により、論理形式は確定できないし、論理判断はできない。

(注) この問題は、学科についての分類と問題の核についての整理が必要と思われる。


自己言及のパラドックスと超越論的論理学 [論理学]

この問題も、少し整理したいと思います。

「「クレタ人は嘘つきである」とクレタ人が言った」
というよく知られたパラドックス問題で、その基本形は、
「この文章は嘘である」
というパラドックスになります。

この問題はわかってしまえばシンプルなものです。

まず、「この文章は嘘である」(X)という命題ですが、この命題は形式的には、「A(主語)+否定判断」です。

そして、Aはこの命題自身(X)を指している
そうすると、AにXを代入すると、「「A+否定判断」+否定判断」となる
従って、この文章は、「A+否定判断」と「「A+否定判断」+否定判断」と、Aに対して、否定判断と二重否定判断をもち、矛盾命題となる

これで終わりです。

つまり、「この文章は嘘である」「「この文章は嘘である」は嘘である」と否定判断と二重否定判断をもち矛盾命題となるということです。

【要点】

要するに、「主語」が、「再帰的に」自分自身の命題を指し、そこでパラドックスになっています。

これは、クレタ問題でも全く同じで、「自分(このクレタ人)の言葉は嘘」という命題が「クレタ問題」の命題に含まれている、ということによりパラドックスになります。

このようなパラドックスはいくらでも作ることが出来ます。例えば、「私の過去の言葉は嘘」と言い、過去の言葉に「私の未来の言葉は嘘」という言葉があるとします。これは循環するパラドックスです。

そして、否定判断だけでなく、相対的判断でも同じで、「私の言葉は正しいとも間違いともどちらとも言えない」(Y)という文章は、「(Y)は正しいとも間違いともどちらとも言えない」となり、これも矛盾となります。

従って、主語が「この言葉(命題)自身も含み」否定判断、相対判断をすると矛盾になる、ということです。

「あらゆる考えは相対的なものであり、正しいとも間違っているとも言えない」
「言葉なんて信じられず、どうでもいい」
「いい加減で、いいじゃないか」
「全てはどうにもならない」

これらも、全て同じです。
懐疑主義や相対主義、ニヒリズムも結局同じことです。

【超越論的論理学】

この問題は、「形式論理学」で考えるからパラドックスになります。そして、カント~フッサールの「超越論的論理学」で解明されます。そういう理解になっていないのはフッサールの「経験と判断」が全く理解されていないから「それだけ」につきます。

「私は嘘つきである」という言葉を例に、これを超越論的論理学で理解していきます。

まず、「私は」という主語の時点では、「私の何」に対して語ろうとしているのかまだ理解できません。しかし、「嘘つきである」という述語を読むと、「私は」というのは「私の言葉」ということが理解できます。これは「述語的明証性」から「前述語経験」に遡ることを意味します。

そして、「前述語経験」の明証性に遡っていきます。「私の言葉」ということは分かりましたが、これは「私の過去の言葉」「私の今の言葉(この言葉)」「私の未来の言葉」と三つの意味を持ちます。そして、パラドックスに陥るのは、「私の今の言葉(この言葉)」の部分です。これにより、この言葉(命題、論理)自身を再帰的に指すことにより、それが否定判断であるなら最初に示された矛盾になるということです。

更に、「私の過去の言葉」「私の未来の言葉」でも、その明証に遡ると、どういう言葉、命題、論理があるかも知れず、それによりパラドックスが生じることもありえます。

フッサールはこう言っています。

「論理分析の形式的性格は、論理分析の物質的性質を問わず、基体が判断の中でとるカテゴリー形式(主語形式、述語形式等々)だけを問題とし、任意に何でも代入できる空虚なS、pなどの記号以外のことについては一切を不問に付す」

「主語や述語がその内部にカテゴリー形式を含むかどうかについては全く関知しない」

「形式として理解された主語Sは形式的には不特定の対象Sによって埋められることもあれば、「aであるS」、「bであるS」、あるいは「Qと関係するS」等々によって埋められることもある」

「だから"S ist p" という単純な判断形式の場合でも、…その判断が事実上最終的基体の形成に直接に依存する形式をとっているか、Sやpに主題となる対象がこないで、…カテゴリー的な形成物で、その形成過程を探ると更に以前の判断にかえっていかねばならないものかは、"S ist p" という判断形式からは決定できない」
(以上、経験と判断 第5節)

要するに、「Sはpである」という判断形式を形式論理学で考えると、Sやpの内実は不問に付され、単なる記号としてしか扱われない。しかし、Sやpは「判断形式」など様々な命題、論理式、形成物、経験も与えられるのであり、その最終的な基体に遡っていかないと、論理判断としては不十分である、ということです。

例えば、「Sはpである」で「S」は条件なしで何でも与えられるとします。そうすると、命題「AはBである」を与えると、「「AはBである」はpである」、命題「Sはpでない」を与えると、「「Sはpでない」はpである」と論理的にいくらでも拡大します。

この理解があると、「自己言及のパラドックス問題」は単なる形式論理学での問題となります。超越論的論理学は、このような形式論理学上のパラドックスを全て解明する基礎を与えています。

「経験と判断」で訳者はこう書いています。
「数学の領域にゲーデルの不完全性定理が現れ、物理学の領域にハイゼンベルク不確定性原理が現れる」
「厳密な学問としての哲学を求めるのは、まぎれもなく近代的な志向である」

として、フッサールの超越論的論理学は前時代的なものとして批判されています。

しかし、ゲーデルの不完全性定理は「経験と判断」で、ハイゼンベルク不確定性原理は「経験と判断」と「危機」で解明される問題です。(※と書いたが、少し訂正が必要)そうなっていないのは、超越論的論理学や、客観主義の背理性が理解されていないことによるものです。

超越論的論理学は前時代的なものではなく、むしろ、フッサール以降の形式(古典的)論理学とその変形的な論理的懐疑の方が「次元の違う」もの、ということがそろそろ理解されてもよいと思います。


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