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ハイデガーのフッサール批判(4) [ハイデガー]

ハイデガーは「循環論証の異議は、常に不毛であり、何事も解決せず、根本的研究を妨げる」(存在と時間 第2節)と言っています。しかしこれは開き直りに近いものであり、循環はもちろん論理矛盾であり、それはハイデガーの存在論が「存在の根拠」なるものを求める形而上学的思考だからです。

「純粋自我」は実体的なものではありません。実体でなければ架空の物語か?無か?という思考では現象学的還元を理解することは不可能です。つまり、思念、知覚等の意識の出発点とは?ということであり、「純粋自我」とは「意識の働き」の出発点を表す理念に過ぎません。

「無意識」と言っても、「無意識」と意識されて初めて「無意識」になる。あらゆる存在は志向的相関(志向性-相対対象)である。私(現存在)もそうである。

事物には、生の本質がない。それゆえ何も現象しない。人(動物)には生の本質である自我が存在する。従って、自我から出発すること、これが第一義です。自我を可能にする「存在」などという超越項を立ててはいけないということ。

「意識されたもの」は、最初は「無」であり、「有」として「生まれる」。
「構成」もそのつど「生まれる」ということ、つまり「生」。
「感じる」ことも「欲望」も「生まれる」。
人(動物)は何かを「生み続ける」ということ。
「生」とは何かと問うても「生」としか言えず、仮に回答するとしても比喩的な言い方にしかならない。

「生は身体によって可能となる」と通常考えられています。しかし、これは客観的、経験的な説明です。私が私の内部で起こっている、例えば血の流れ、細胞分裂などを知らないように、何によって可能かなどというのは、いくらでも言える仮説に過ぎません。

「何が生を可能にするのか?」という問いは、「何故生きているか?」という問いと同じです。生きているから、思考するから、その問いが可能になるのです。

要するに全ての対象的なものは意識(志向的な働き)により構成されるものであり、意識が何により成り立っているかと「意識を逆走する」(実体的根拠へと遡る)ことは背理なのです。「生の根拠」「思考の根拠」への問いは循環論であり背理です。

しかし「何故「生」が維持されているのか?」という問いには、「哲学的ではなく」比喩的になら仮説の答えでイメージできるかも知れません。

古代から生物は連続し、今がある。DNAは連続し、自立的実体となって受け継がれていく。決して動物は単独で無から生まれたのではなく、生殖により連続し「血はつながっている」。私の中でも連続したものが生み出し続けられ、生み出し続けるものが「生」と言える。自我が死ねば身体は役目を終え、朽ち果てていく。いわば、身体は「自我(生)を可能にする」実体的なものと言える。

「フッサール現象学」以外の哲学が問題を抱えるのは、「今、私が、見ている、知覚している、思念している、反省している」という、「生のベクトル、認識のベクトル」から離れた地点を「措定」している、からです。「私の(目覚めた意識生の)視点からいつの間にか離れている」ことにあります。

どうもフッサールは弟子の批判に積極的でなかったせいか、ハイデガー以降かなり意図が歪んだまま今に至っているようです。

「彼には、全く彼と精神を同じくして研究する弟子が只の一人もおりません」(エーディット・シュタイン)


ハイデガーのフッサール批判(3) [ハイデガー]

フッサールの「自我」というのは「生の本質」のことです。このことにより、「世界が無から構成されるではないか」というハイデガーの疑問に答えられます。

つまり、「自我」は「無」ではなく、「生の本質」であり、「生む」ということ。
「生」は「理念=本質」であり、存在的には空虚かも知れないが、そもそも存在というのは、「自我」と相関的なものでしかないということ。存在的に「無」という批判は背理であり、理念と存在的実体の区別が未分化なこと。が理解されると思います。

ハイデガー存在論は、「存在の形而上学」として批判されていますが、それを逃れてはいません。

「存在者の存在様式がある」「存在者の不可解さがある」と言ってもそれを「認識している」ということが第一次の事象としてあります。「現象学の理念」でも言われているように、どうすれば「哲学は出発出来るのか」という問題があり、まず「~を認識している」(志向している)ということを第一に置かなければ、全ては逆さまの論理(循環論)に陥ります。

「認識する」ということから出発しなければ、認識を可能にする存在、存在様式は何か?という思考に入り(出発存在要素を措定し)、それをまず措定したところで、それを認識しているのは何か?と論理は循環します。

「存在者の不可解さ、神秘」と言う時点でハイデガーにはこの理解が欠けています。「不可解さ、神秘」は現象学的還元によりエポケーされます。「不可解さ、神秘」(という客観的なもの)が存在するのではなく、それを認識しているという事象(現象)があるのです。

つまり、「存在者の存在様式」があるというのは、結局「自体的な存在様式」ということであり、独立した存在様式を措定することになり、背理な主客問題が現れます。フッサール現象学では、「存在者の存在様式」も「我と不可分(自我と分離出来ない)」のであり、存在様式を認識している、ということが第一事象となります。

「世界」の説明では、フッサールの場合「世界は意識によって構成される」ですが、ハイデガーでは「世界は現存在により暴露される」となります。これは「目覚めている人」であればいいのですが、「寝ている人」の場合はどうでしょうか?

「寝ている人」の場合、世界は暴露されません。しかし現存在としては存在するのであり、ハイデガーの説明では、混乱が生じます。結局、「目覚めた現存在」は世界を暴露するが、「眠った現存在」は世界を暴露しない、としなければ辻褄が合わず、フッサールの「目覚めた意識、志向性」の説明に近づいていきます。

フッサールの説明では、「寝ている人」(の視点)では、「意識の構成的働き(統覚)自体がそもそも起こらない」(イデーンII-1 第23節参照)で終わりですが、ハイデガーの場合「寝ている」現存在の存在様式の「視点」からのありえない説明が発生し、これは実は第三者的な視点、いつの間にか発生した客観説明です。

ハイデガーの「世界内存在」という存在論的説明で、視点はどこにあるのでしょうか?結局、どこかの外部視点から捉えた存在の現象学的構図でしかなく、「存在の形而上学」であり、哲学的には背理です。(もし外部視点ではないと言うなら、本当は「視点」があるはずなのに「視点はない」と仮定しているだけです)

そういう訳で、「古い弟子の誰一人として現象学的還元を理解しているものはいない」(フッサール)ということになります。


ハイデガーのフッサール批判(2)「他我論」 [ハイデガー]

「デカルト的省察」第5省察や「イデーンII」に見られるようにフッサールの他者経験の説明は、自分の身体との類比から他者が考えられ、「感情移入、自己移入」として他者経験が示されます。そして、他我は、自我との類比による転移という形で説明されます。

しかし、この説明は多くの難点を含みます。例えば、

・動物、虫(例えばミミズ)などの他我経験はどう説明するのか?自分の身体との類比では説明し難い

・他者の身体というのは、あくまで私からは「外面的なもの」を直観して捉えられる。しかし私の身体は、「外面的なもの」として直接見えるのは部分的であり、全体は直観でなく「客観構成されたものとして」捉えられる。例えば、私の身体の外面を全く経験しない状況(生まれながらにして身体が麻痺状態で、ある方向しか見えない場合など)でも、「他者、他我」経験は存在すると言えるはずである。そして、「他我」が他者の身体から経験されるのに対して、「自我」は自己意識を反省的に直観して捉えられるなど、「他我」と「自我」は同列には扱えない

・他我は身体が見えなくても「声」だけでも経験される

等という問題が残り、フッサールの説明は失敗しています。

但し、他者経験に対して感情移入、自己移入という側面が全くないとは言えず、そういう面も確かにあり、それで全てを説明するところに無理があります。

では、我々は、他我をどう経験しているのでしょうか?

[ケース1]
熊の着ぐるみが立っている。じっとしていて動かない。
このとき、他我は確信されません。人間が入っているかどうかという推測は行われますが、熊の着ぐるみが襲ってくるなど、動作を始めたときに、他我確信は生じます。

[ケース2]
ハエが飛んでいる。
他我は確信されますが、ここで注意したいのは、どういう状況か?ということです。まず、視覚だけでハエを見た場合でも他我確信されます。次に目を閉じて聴覚だけで羽根の音を聞く場合も、他我確信されます。そして目を閉じて、音を立てずに、ハエが私の腕を動く場合でも、これも(やや弱いですが)他我確信が生じるといえます。

[ケース3]
100年後の高性能AIBO犬が、見た目も動作も全く普通の犬と変わらない場合。
ロボットと聞いていなければ、「普通の犬」と見るので、他我確信は生じます。

[ケース4]
見えていないが、隣の部屋から「声がした」場合。
これも他我確信は生じます。

[ケース5]
目の前を歩いていた人が、車に跳ね飛ばされて、ピクリとも動かなくなった。
「意識を失った」と確信されます。

これを見てもわかるように、「他我」経験、確信というのは、動物の「自律的な運動」「声」を視覚、聴覚、触覚で私が感じたときに生じます。

では何故、そのような確信が生じるのか?
それは、動物の「自律的な運動」「声」を通じて「生」が本質直観されているのです。

「自我論的な生の本質である志向性」(危機 第20節)
「意識とは途絶えることのない生成である」(受動的綜合の分析 第48節)

つまり、「自我」とは「生の本質」であり、「他我」も「自律的な運動」「声」を通じて、「生の本質」を直観しているということです。

「自我意識の働き」が外面として表れる部分に、「自律的な運動」「声」がある。それが表現となり、他者がそれを「知覚」すると、「生を本質直観」「他我を直観」させるということです。

フッサールは「自我」は「生の本質」であることを理解していましたが、何により「他我」を直観するのかという所で躓いたようです。

「自我=生の本質」は、比喩的に説明すると、「志向する、欲する」能動的ベクトルと「与えられる、感じる」受動的なベクトルの時間的(連続的・過程的)なものである、とも言えると思います。

フッサールの言うように、「事物」が存在妥当、存在確信に過ぎないように、「他我」も確信に過ぎません。基本的に他我も錯覚することや度合いがあるということです。そして、自我が「内在」として疑いえないものであるのに対し、他我は「超越」としてあります。


ハイデガーのフッサール批判(1) [ハイデガー]

ハイデガーがフッサールを批判したものは、私の知る範囲では「ブリタニカ草稿」「存在と時間」「時間概念の歴史への序説 全集20巻」「現象学的研究への入門 全集17巻」などがあります。

しかし、批判内容はほぼ一点であり、それは次のような言葉です。

「意識は「存在するに何ものも必要としない」という意味で絶対的に与えられてある」
「志向性を現象学の主題的領野として取り出すことにおいては、志向的なものの有への問は究明されないままになっている」(以上、時間概念の歴史への序説 第11-12節)

「この領域「意識」はいかなる種類の有なのか」(現象学的研究への入門 第6節)

「自我を…出発点にすることを禁じる」
「世界なしの単なる主観が、存在しているのでもない」
「自我の…本質的規定性は実存論的に解釈されねばならない」(以上、存在と時間 第25節)

そして、最も端的に批判しているのは「ブリタニカ草稿(添付文書)」で、それは次のようなものです。

「世界」を構成している存在者の存在様式とはどのようなものでしょうか?人間は事実ではなく、実存しています。「驚嘆すべきこと」は現存在の実存体制が超越論的構成を可能にしていることです。身体論、純粋心理学の考察は、人間を具体的なひとまとまりとして扱うことで可能になります。構成するものは「無」ではなく「存在者」です。「絶対的な純粋自我」の存在様式とはどのようなものでしょうか?

つまり、フッサールの説くように、世界が超越論的主観、絶対的な純粋自我によって構成されるならば、それは存在的には「無」から構成されたものである。世界は無から構成されるというのは問題であり、世界を構成する実存体制、存在者の存在様式こそ明らかにせねばらない、というのが批判の骨子です。

それに対するフッサールの返答(資料B)は、次のようなものです。

世界や事物が存在するということは、自我主観が存在し、世界や事物を表象、知としてもつことである。私の存在も、自我主観により構成されたものである。あらゆる存在論は、超越論的主観から明らかにされる。

対立構図としては、「世界は無(純粋自我)によって構成されず、構成する存在者(現存在)の存在様式こそ明らかにすべきである」「無から有は生まれない」というハイデガーと「存在者の存在様式も自我主観によって認識される」というフッサールということです。

これは、どちらが正しいのでしょうか?

結論から言えば、フッサールの方が正当です。しかし、フッサールは「それでは、世界は無から構成されるではないか」というハイデガーの批判に「疑問を解くようには」答えていません。フッサールは次のようにも言っています。

自我は、本質構成要素の点で全く空虚であり、開陳されるような内容を全く持たず、それ自身として元来、記述できないものである(イデーンI-2 第80章)

では、「世界が無(空虚)から構成される」という批判に、現象学としてどう答えればいいのでしょうか?

これは「他我論」を経由することで理解が得られると考えています。私の見る限り、フッサール現象学の明らかな誤りは「他我論」くらいで、その他はかなりの水準にあり、問題があるとしても「微妙」な問題です。

では「他我論」について考察していきます。


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