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言葉のエポケー [現象学批判]

哲学は、言葉を使用し、言葉を前提せざるをえないのだから、「哲学の無前提」は矛盾である、という批判がある。

現象学は超越物をエポケーするが、言葉はエポケーしないのか、という疑問を見ることもある。

確かにこの問題は少しわかりにくい面がある。
答えるとすると、次のようになるだろうか?

現象学は、「言葉(記号)」を前提しているのではなく、「言葉(記号)」は「理」を指すため、「理」に至るための道具として使用されている。

例えば、「2×3=6」という演算式がある。これは「演算式の理」を名指すために、「記号(言葉)」が使用されている。この演算式において、「記号」はこの「理」の前提だろうか?

「記号」はあくまで伝達や理解の道具として使用されているのであり、「理」の正当性の条件として「記号」があるのではない。「記号」が現在このようであるのは偶然でしかないが、しかし演算の「理」は永遠である。

これと、言語のエポケーの問題は同様である。現象学の「理」は、言葉によって「理」が変わったりするものではなく、(だから「理」を同じものとして別の言語に翻訳できるのであり)「理」を指し、伝達する道具としてあくまで「言語」が使用されている、と、言えるはずである。

演算式の正当性の前提として「記号」がある訳ではないように、現象学の「内容の正当性」の前提として「言語」があるわけではない。

それでも、「言語」がなければ、理論も何もないではないか?言語があることにより、理論は可能になる、と批判する人がいるかも知れない。

しかし、この手の批判は、事の本質を見誤っている。この批判は、言語の使用を禁じているのであり、哲理の「無前提」ということとはかかわりはない。

それは、生活の中で哲学の論文を書くことにおいて、(生活が前提になっているので)生活を禁じるのと同様である。
数学の証明において、記号や図を使うのを禁じるのと同様である。
結論に至るための「手段」を禁じているだけである。

確かに、「充実した言語」や「前提となる理念」がないと「深い認識論」に至ることは難しい。デカルトやカントなど近代哲学の成果がないと、いきなり現象学を始めることはフッサールといえど困難である。しかし、充実の度に、再び元の認識論も批評、整備されていくのであり、それと「言語が前提になっているという批判」とは関係がない。つまり「理論」の整備を目的としているのであり、「言語」の整備を目的としているのではない。


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意識の記述についての現象学批判 [現象学批判]

・現象学は「経験を反省して記述可能である」というが、記述するときには、その経験は既になく、その経験を思い出すか、現在の経験を記述するというありえない構図(記述することは記述できない)かどちらかである

・意識はどのように描いても、描かれたものは、直接的な所与、経験ではない

これは、割とよくある現象学批判の一つですが、簡単に言えば、

・経験を反省すると、元の経験と異なる(から経験は記述できない)
・意識自体は記述できない

という批判です。

しかしこれは、現象学が「本質学」であり「本質、ノエマ的意味の記述」ということを誤解している批判です。

そして、「イデーン I」「内的時間意識の現象学」「現象学の理念」などでフッサールが既に回答(例えばヴァットの批判への回答等)している問題です。フッサールの回答を加味して更に疑問・批判ならまだわかるのですが、そういう訳ではありません。これ以外にも既にフッサールが回答している問題をそのまま批判している例はよくあります。批判する側も、受ける側もフッサールの回答を前提としていないことになり「現象学批判、議論」として機能していません。

フッサールの回答を引用すると「膨大」なので、要約してみます。

「経験を反省すると、元の経験と異なるから、元の経験は記述できない」という場合、既に、「反省内容」と「元の経験」を比較し、異なる、と言っているのであり、「元の経験」は把握しているのである。「元の経験を把握している」のに「元の経験などわからない(記述できない)」とは矛盾である。もし、「元の経験は把握していないが、異なるはずである」と言うなら、何故把握してもいないのに「異なるはず」と言えるのか?

どんな「反省」も、意識の変様である。変様された意識も、元の意識と「同じもの」についての意識で ある。この平行的な体験は、共通の本質をもつ。既に変様した体験から出発しても、元の体験へ連れ戻される。

体験は、一つの流れであり、この流れの跡を追うことは出来るが、流れた過去は、反省しても失われている。ただ過去把持の形式においてのみ、流れ去ったものについての意識をもつ。対象は過去把持をもった時間意識の中で同一の「対象」として把握されるのであり、そのつど目に映ったものが把握されているのではない。

本質把握の目差しは、反省的に対象化されていない体験も捉える。「反省」は、それ自身が「一つの新しい体験」であり、この体験の中に、「反省されていなかった体験」も取り込まれる。体験に「反省的直観」を加え、「理念を観て取る働き」により「本質把握」を行なえば、体験は「持続する」。

流れ行く具体物は、術語化などできない。しかし、本質に対しては、厳密な概念的把捉、本質分析を施しうる。我々が記述するのは、知覚一般の類的本質であり、想起一般、意欲一般等の、類的本質である。従って、志向的な相関者を忠実に記述する場合、偶然的ではない、本質法則によって規制されている性格を、厳密な概念において確定しなければならない。

我々は、「現出するものそのもの」を、忠実に記述することができる。知覚をノエマ的観点において記述することができる。体験のどれにも、ノエマ的意味が「その中に」「住みついている」

要するに、現象学が記述するのは「本質」の記述であり、意識の対象について記述可能であるというのは、「(ノエマ的)意味」の記述が可能であるということです。

例えば、「カエルの声が聞こえる」というのは、単に経験しようと、反省しようと、その本質内実に変化はなく、「意識体験は反省により変様しても」「本質は変化せず」その本質は記述可能である、ということです。


フッサール現象学批判について [現象学批判]

現象学批判も様々なレベルでありますが、ほとんどは初歩的な誤りであり、ただ「イデーン I」を始めとしたフッサールの著作を意図を追って読んでいないことによるものです。

全てを超越論的主観性に還元し「出発する」現象学を、超越論的主観と客観論・実在論をいつの間にか混在させながら、また事実と本質を混同しながら批判しているようなものがほとんどです。またフッサールの「真理、客観、明証、妥当等」の言葉を未分化なまま受け取っています。

私の知る限り、フッサール現象学自体を批判したもので議論になるのは、ハイデガーの批判ぐらいです。主な現象学批判については、明らかにしていきたいと思います。


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