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不完全性定理と直観主義 (2/4) [数学系]

§ 嘘つきのパラドックス

嘘つき、自己言及のパラドックスとして語られる命題は、

A: 「この文は偽」

という基本形を内包する。

「主語+否定判断」であり、更に主語はこの命題自身を指している。だから、代入すると「「主語+否定判断」+否定判断」となり、主語に対して否定判断と二重否定判断をもち矛盾命題となる。

形式的体系論(型の理論)により、A を論理式の形にすると、

B: ¬p  ← 1階の対象(論理式) p に対する否定

となる。そして p は B 自身を指している。

従って、代入すると、

¬(¬p)  ← 2階の対象(論理式) p に対する二重否定

で、p に対して「否定 かつ 二重否定」となる。

(数学的に考えると)再帰性があるので p への代入は無限に繰り返される。

ポイントは1階と2階以上(高階)の「同一対象 p」に対しての判断の違いであり、その悪循環構造、事態矛盾である。有限ステップに制限しても矛盾である。

§ 相互言及

C: 「命題 D は誤り」

D: 「命題 C は正しい」

上記2命題において、それぞれの命題は形式的には問題はない。
しかし2命題は外部参照型の循環構造になっている。

C を「真」とすると、「命題 D は誤り」なので、D 文をここに代入すると「「命題 C は正しい」は誤り」となる。

従って、これも命題 C に対して、「真」と「偽」の対立判断となる。(命題 D も同様である)

上記2命題も、「同一対象(主語)」に対して、構文上「判断が二重的対立になる」という、対象と判断の問題である。そして、無限循環構造をもつ。

これは「形式」の矛盾ではなく、「対象」と「判断」に悪循環構造が現れる「事態」の矛盾である。

§ 高階の悪循環

型の理論(述語論理)で「2階以上の高階の対象」は、「ある対象」に対して再定義、多重定義という性質をもつ。これが問題を生みやすい原因となる。

パラドックス問題は、カントールやラッセルやその他、主に集合論から出現している。

集合論には必然的に「2階以上の高階の問題」が含まれる。何故なら、2階の対象は、1階の対象の集合であり、3階の対象は、2階の対象の集合だからである。

集合とは、要素に対しての分類であるが、分類と要素の関係矛盾を防ぐ方法が必要となる。分類の「要素」が「ある分類」により変更になる場合には矛盾が発生しやすくなる。

例えば、「本ブログ内の命題は、xxxである」と書くとする。

「本ブログ内の命題」は分類であり、「各命題」が要素である。この文を書く前には要素は n 個であり、書いた後では「文自身が要素になるので」 (n + 1) 個であり、その後も増えていくので (n + 1 + 不定) 個である。ではこの分類に対する要素はいつ決定されるのか?

分類と要素には単純に考えてもこの関係矛盾の可能性が含まれる。

集合論や数学的帰納法、その他高階を許す場合には悪循環問題についての考慮が必要である。

第1不完全性定理は、「この論理式G(ゲーデル文)は証明できない」という論理式Gが作れるという問題であり、「嘘つきのパラドックス」と同様の構造をもつ矛盾命題が現れる。

これは2階以上の高階型の悪循環であり、同一対象の論理式G(ゲーデル文)に対する二重判断(矛盾判断)である。

不完全性定理が示しているのは、「排中律」を前提した「自然数論を含む高階型の」公理体系においては、数学的事態の矛盾をもつ命題が現れるのであり、それを取り除く公理を追加しても新たに矛盾命題が現れる、ということである。

元々、不完全性定理は非構成的な証明方法を採用し、前提している。結局、それは非構成的な方法の「不十分さ」「曖昧さ」を証明している。

こうしたパラドックス、悪循環の問題を解消するために、数学の基礎づけが要請されたが、形式主義の方法がこの悪循環を根本的には解消しないのはブラウワー(や既にポアンカレ)や不完全性定理の示すところである。

それは「直観」を排除し、数学を実在的客観、機械的形式として捉えるような志向に対する警鐘的意味をもっている。

フッサールの超越論的論理学が「示唆」しているように、ある「命題」の判定は、その命題が「論理的に閉じている」「事態の矛盾がない」ことが判断条件である。

従って、ある「命題A」が「別の命題B」を参照している場合などは、命題Bへ辿って(遡って)、そして事態矛盾(同一対象で判断が異なる、関係矛盾など)、命題が閉じない(無限循環)などの矛盾がないことが確認されて初めて命題の判断が可能になる。

「命題A」が自己参照(自己言及)している場合は、B=Aと考えてもいいし、「命題A」のコピーを参照していると考えてもよく、これは同じ事である。

§ 排中律

排中律は、命題aが 「a」 であるか 「aでない(¬a)」 かどちらか一方が成り立つことを主張する。

しかし、ある命題aについて、その命題が「意味不明」であったり「真偽では言えない価値的な命題」であったり「矛盾命題」である場合もある。

数学的命題においては、ほとんどの場合それらは「排除」される。また公理上の推論命題においてはほぼ「排除」される(ように公理が設定される)。しかし排中律が全てにおいて成り立つことは自明ではない。

「真」か「偽」が成り立つことが、数学では「命題」と定義していることが多いが、この定義は曖昧さを残している。

「証明できない難問題」や前記のように悪循環を内包した「形式的には問題のない命題」「各種のパラドックス問題」、不完全性定理が示すように「公理を追加しても新たに矛盾命題が発生する場合」もあるからである。

§ 諸原理の原理

「一切の諸原理の中でも肝心要の原理がある」

「それは全ての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であること」

「この一切の諸原理の原理に関しては、考えられうるどんな理論も、我々を迷わせない。何故なら、どんな理論も、当の自分の説く真理そのものを、再び原的所与性から汲み取ってくる以外にはないことを洞察するからである」
(フッサール)

ある理論があるとすると、理論は「独立して単独に」存在するように見えるが、「理論に対する直観」がその正当性の源泉にある。

もし「数学的規則、形式」が「直観」なしの「数学的規則、形式」に根拠づけられるならば、循環であり、その根拠(数学的規則の根拠)は不明なままで、根拠を求めて彷徨うことになる。

「数学的規則、形式」の最終的根拠は、数学的事態に対する「直観」によるものである。(普段は意識しなくても)そこに遡れることが、数学的言明の正当性を根拠づける。それは「規則」の「外部」であるが、そうした人間的直観を切り離した「規則的体系」は実は循環論になっている。

「数学の述べている全ての命題が、形式論理の諸規則によって次々と演繹できるならば、なぜ数学はひとつの巨大なトートロジーに還元されないのか」 (ポアンカレ)

数学が「規則」により全て演繹されるもので、何ら発見がないならば、数学はただの機械的演繹である。では、その規則を決めたのは誰なのか?その規則は何によって決められたのか?規則に不備があるとすると、不備というのは何により判断されたのか?

数学においては「発見」と「演繹」、「直観」と「論理」は両輪である。

「定義は、その用語においても、矛盾を含まず、先に承認してある真理とも矛盾しないことを証明し得なければ正当なものとは認められない」

「公理は単なる定義、勝手な規約ではなく、確かに正当な規約である。公理群については私はそれを正当だと信じている。何故かと言えば、それは親しいある種の経験的事実と最もよく符合するものであって、最も便利なものだからである」
(ポアンカレ)

定理などの習慣的になっている「知」は、普段疑われたりはしない。しかし、その定理も遡れる、確認できることで定理たりうる。定理とは、そのような疑いを反復的、客観的(他者による検証)、歴史的に乗り越えたものであるから、疑う根拠が希薄であり、もし疑っても自分で確かめることができるものである。

ピタゴラスの定理も、自分で確かめることができるし、懐疑することも可能である。しかし、簡単な定理で歴史があるものは、最近解明された難解な証明問題などに比べると、問題を見つけられる可能性は限りなく0%に近い、というだけである。


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