So-net無料ブログ作成
検索選択

光と同時 [科学系]

人がある事物を見ている時には、その対象を見ているのではなく、対象からの光(発光体の光または反射の光)を見ている。科学的説明ではおおよそこうなる。

例えば、アンドロメダ銀河は「地球から230万光年の距離に位置する」と言われる。

地球からアンドロメダ銀河まで光の速度で「230万年」かかる距離ということであり、つまり今「観測」しているアンドロメダ銀河は「230万年」過去の光ということになる。「今のアンドロメダ銀河」は「230万年」後でなければ見られない。

しかし考えてみると、ここには「ある前提」が存在する。

「同時性」という前提である。

「今の地球」と「今のアンドロメダ銀河」とは「同時」が存在し、「ある距離」離れている。その前提で「今」の「観測者」から見て「対象」は「過去(の光)である」という帰結である。

が、「同時」というのは誰かが観測したものではない。一気に同時に2つの離れた地点の「今」を見ることはできない。

「同時」というのは主観を離れた仮説であり、そこは「超越者の観測視点」の領域である。

ニュートン力学では、空間内のどこにおいても「同じ」絶対時間が存在する。

地球 ←――――――――――→ 土星

7:00 ――――[同時]―――― 7:00

誰がどこにいようと、宇宙上では同時刻が存在する。「同時の絶対」である。

しかし、この「同時」を「誰が見たのか」、「超越者か?」という問題が発生する。どこから、誰が見ても「同時刻」というのは一つの仮説である。

そこで相対性理論では、一工夫される。

地球の[観測者A]――――[対象は光で同期]――――――→ ロケットの先端(7:00)
                  [対象は光で同期]――――――→ ロケットの後端(7:00)

(7:00)地球のある地点X ←――――[対象は光で同期]―――― 土星の[観測者B]
(7:00)地球のある地点Y ←――――[対象は光で同期]

「同時」というのは「ある観測者から見て」設定される。距離が離れている場合でも、ニュートン力学では「超越者視点」で「同時」であるが、相対性理論では「一方の観測者」から見ての時刻しか言えなく、対象側は「光(の速度)」を用いて時刻が同期化される。

我々は、神ではないのだから「誰か」から見た「観測」しかできない。「観測者」は対象物から反射した「光」しか見ていないのだから空間距離が離れた分は「光」で同期させる、ということである。

「観測者」が見ているのは、「ここ」での「光」であり、離れた場所にある物体は「ここ」に到達した光の観測である。では見ている対象は「見かけ上」のものしか観測していないのかという疑問も残るが、それは「誰かから見たもの」なので「見かけの物体」と「実際の本当の物体」と分けることはできない。(分けるなら、「誰かからみた観測」という話から、2つの時点を同時に見た話に変わっている)

「超越者視点」から「観測者視点」に、ということで「客観主義」から「やや超越論主義に近づいた」と言えるのかも知れない。


現実世界は、偶然性の排除できない世界である。偶然性がなければ決定論になる。常態的な部分や予測可能な部分についてもそれは経験的な因果での確実性であり、理念的な普遍真理性ではない。

事実現象のある因果に着目すると、それは「理念」や「数値」によって「理論」として「近似的に」いつでも成立する「法則」を構築できる。

しかし、その法則は、人間の「観測」や「具体的作業」や「装置」や「現象理解」という現実的な行為・理解によって初めて成立するものである。人間の現実的観測行為と相関性をもつものであり、世界自体を「客観世界」として「人間」と分離させることはできない。分離しても厳密には様々なパラドックスが現れる。

「現象」のある因果から「仮説理論」を立てる。それを「実験」により反復させ、「近似的に」どこでも成立し共通理解が得られると、その「仮説理論」は「実的理論」となる。

「現実的実験」 → 「理論」 → 「現実的実証」

と「理論的なもの」と「現実(事実)的なもの」とは次元が常に移動しながら、最終的には、「実証」により「実的理論」となる。「実証」のない理論は「仮説的」にとどまる。(何をもって実証とするのかは難しい)

「実的理論」も事実現象をある観点で切り取ったものなので、新しいより優れた観点モデルが現れると、前の理論は再構築や放棄や条件制限される。観点モデルというと虚構的にも見えるが、経験的な因果を理解するためのモデルであり、モデルがないと実用、応用、改善はできない。

「量子論」などが提示する問題は、これ以上進むと「哲学」になり、「主観的なもの」「経験論的相関性」を考慮しないとよくわからないという所まできていることが多い。そこからは様々に意見が分かれる。本来は「哲学」からその基礎原理についての示唆があるはずである。

少し見た限りでは、現象学とフラーセンの構成主義的経験論がその部分では最も進んでいるようである。この二つは近い関係にあるが、後者はより具体的に掘り下げられている。(和訳が絶版になっているが、本格的なものは人気がないのか・・・)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。