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ブリタニカ草稿(最終稿)第10節 [読解シリーズ]

【超越論的現象学への準備としての純粋心理学】

○心理学主義が克服されなかったのは、主観の二重性(心理的、超越論的)という問題が明らかにならなかったからである

○形相(理論)的な学問としての心理学はこれまで存在しなかった

○超越論的態度は生活全体の変更をも意味し、その独特の新しさにより必然的に理解されにくいものである

○現象学的心理学は、新しい心理学であるが、実証的な学問と親しい関係にある

○現象学的心理学の学説内容は、超越論的なものにまなざしを向け変えると超越論的現象学として理解される

○現象学の困難は、合理的な心理学として「内的に経験する」ことの意味と、超越論的方法の意味を理解することにある

○超越論的関心こそが、もちろん究極的な学問的関心である

○必要なのは、超越論哲学を自立した体系の中で形成することである

○また、超越論的態度と比較しながら自然的態度のあり方を明確にすることで、超越論的現象学を実証科学に適用する可能性について現象学の中で明らかにすることである

【まとめ+】

現象学が追求しているのは、理論的な問題としての哲学であり、「解釈」的なものではない。理論的というと、現実と遊離しているようにも見えるが、そうではなく、ただ一般本質的なものというだけであり、「いつでも、誰でも、どこでも」という問題を扱う。

時代や地域によって変化するような、事例的な問題や個々のケースとなる「偶然の問題、普遍的に言えない問題、解釈問題、時代的な合意による問題」にはほとんどタッチしない。時間の経過と共に忘れられる問題は、基礎的な意味での哲学の問題ではない。

「解釈」問題は、相対性、時代性、個別性を免れない。それは幅広い意味での哲学の問題であるが、理論として正否を言うことは難しい問題である。言えるとすると、「解釈」の内容ではなく、「解釈」する人間の認識構造ということになる。

「相対性がつきまとう困難な解釈問題、現実問題」の扱いは別課題である。

普遍(本質)的なものと相対(事実)的なものと区別することは哲学の課題であり、現象学は理論的にどこまで押し進められるか、ということである。このことは区別がつかないまま語られがちであり、相対(差異)か、同一か、では遠くへは行けず、(事実と本質についての)原理矛盾を抱え込むことになる。

難解さもあって、現象学は果たして現実の人間に向いているのだろうか、という疑問もある。どうも理解されにくいのは、フッサールの記述の難解さのせいだけではなさそうである。根本的に「生きた自分の問題圏」でないと、全く何のことか「異次元」の話である。基本的には、フッサールの話でも何でもなく、全て「自分の問題圏」にある。

人間に向いているか向いていないか、は本来哲学原理としては問題ではない。難解な数理が、向き不向きではないように、難解さは問題ではない。数学者、哲学者に向き不向きはあっても、数理、哲理に向き不向きは関係ない。(ただ難解なものはわかりやすく一般化するという課題があるだけである)

「凝縮された緻密な難解さ」と「書いている本人もよく理解できていないこと」はある理解がないとなかなか判別できない。現代の難解さの多くは後者であり、専攻に関係なく、意味不明のものから、文学的にカモフラージュされたもの、巧妙に理解されないように画策された難文まで、様々な作為が競われがちである。

そもそも現実とは、偶然の積み重ねであり、人間もそうである。であるならば、普遍的な理念、人間の本質構造などというような現象学の「理論」は果たしてどこまで言いうるのか?それは「いつもの」適当な「まやかし」ではないか、という疑問はありうる。

しかし「現実も人間も偶然の産物」という考えも、「一つの理念」であり、人は懐疑するにしろ、批判するにしろ「事実(相対)的なものも本質的なものとして」論理化している。ある「観念」と「合理性」でしか哲理の批判も批評もなく、それが矛盾を起こさないように根源から組み立てることが可能なら、それは哲学の課題である。

「理性への過信」という言葉も、理性判断であり、ここでは「独断的な合理主義」への懐疑が「理性的に」問われている。「精神性の問題」は理性では問えないということはなく、「一般本質的」なものとして問うことは可能である。「哲学として書く」ことは「一般化」「普遍化」を目的にしているのであり、それを否定することは矛盾となる。理性に否定的な人も、(心情と論理が混乱しがちであるが)暗黙の内に理性を用いていることの洞察が必要である。

論としての「一般本質」しか普遍性は得られない、ということから現象学は「形相的還元」「本質記述」により、理論化、「普遍知」を目指す。

普遍知として困難な問題、難しい問題は、曖昧さをなるべく排除し、その困難な理由が示された方がよい。普遍知として言える領域、普遍知として難しい領域、解釈知の領域、あくまで相対的な領域を区別することは「知」の通りをよくするはずである。

個別の体験や心情、実存という個的リアリズムは、事例性(や時間性)を逃れられないのであり、全てを普遍化することは基本的にはできない。普遍化できるのは、その中の共通部分だけである。

個人の想像や体験というのは、どこまでも無限に「進みうる」というのが本質的であり、「観念のバケモノ」になりうる、ということが本質的である。妄想であれ、個的リアリズムであれ、何ら普遍性、現実性、他者批評性のないものを観念的に押し進めても、一般的なものにはならない。

人は自称で「天才」「超越者」「宇宙人」「予言者」何にでもなることは可能であり、「世界を俯瞰」できる気にもなれるものである。巧妙な言葉で、ある程度複数の人を信じこませることができるならば、一つの勢力になりうる。しかしそれにより、単に自己実存の(最終的な)正当化だけを目指しても、結局普遍的な考えにはならない。

個的リアリズムは、否定されるものではないが、それは個的空間、心情を共有できる空間で成立する話であり、共同空間ではある程度制約を受ける。

リアリズム自体は、個別事例であり、正当な普遍性があるというわけではない。深い体験をもつこともあるが、だからその体験に普遍性があるということでもない。あくまで個的なものを普遍化しようとすると、様々な個物による対立的矛盾が生まれることが普遍的である。関係する空間においては、無制限の自由とは、単に自己絶対化となる。

普遍知でない限り、あいまい(派閥的)な心情の共有が限界となる。それは文学においても芸術においてもそうであるが、本質的なものでない限り一般論としては限界をもつ。それは否定されるということではなく、普遍(理論)にまでは至りにくいということである。

哲学理論はなくても生きていけるし、一般社会でそこそこ暮らすにはほとんど関係がない。しかし、数理がそれに興味をもったり、それに関係する研究や作業に(遡れる)意味を内包しているように、(基礎)哲学も本来そうしたものとして準備されているべきもの、であるような気もする。一時の声高な煽りに(あれは何だったのかと)疑問をもったときに興味を持つ(平凡ともいえる)理論かも知れない。

哲学は、誰かに特権を与えるものでも所有のものでもなく、文学や芸術のような作品でもない。権威づけや人を見下すため、ハッタリに利用されるアイテムではない。誰でも洞察できる原理を提供するものであり、理想と現実は離れがちとはいえ、本来そうしたものと思われる。

理論(哲学)的な問題は、理論(哲学)的にしか解決されえない。理論的な問題を理論以外で解決しようとしても自己矛盾となる。

数理は、現実(偶然事実)に接することはなく、理念として完結する世界である。それは一般的理念として、誰にでも洞察可能な普遍的なものである。

数理と同様に「真に(基礎づけられた)原理的なもの」というのは、誰かの恣意によって動くものではない。誤りや更なる充実の可能性については避けられないとしても、恣意で原理は歪められない。「解釈」というのは妥当性において相対性がつきまとうが、根本原理的なものは動かそうとしても、ある「解釈」をごまかせるだけであり、原理が動くわけではない。

文学、芸術は(事例的なもので)解釈の余地が多分にあり、そのことが性質上本質的である。数理は解釈の余地がないことが本質的である。哲学はそういうことを区別することが本質的ともいえる。


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コメント 1

marechi

本当にためになりました。

もうずっと更新されておられないようですが、
この場を借りてお礼申し上げたいと思います。
by marechi (2011-12-14 15:09) 

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