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ブリタニカ草稿(最終稿)第9節 [読解シリーズ]

【超越論的還元と、主観の二重性】

○我々の主観は、「心理的な主観」として、また「世界を構成する超越論的な主観」として、二重の主観性をもつ

○心理的な主観とは、日常の「私」や「我々」のことであるが、心理学的還元により、心理的な意味となる

○心理的な主観は、形相的に変更する(本質論に移行する)とき、現象学的心理学のための地盤となる

○他方で、超越論的主観性とは、この「私」や「我々」と別のものではないが、日常や実証科学という自然的態度で見出されるものでもない

○超越論的主観性とは、目の前に存在するものが一定の統覚により、「作られて」くるという意味での主観である

○「人間としての私」は、超越論的な私にとって存在している

○つまり「人間としての私」は、多様な意識の働きによって「現れるもの」である

○「人間としての私」は、実在的な意味での自我や私を前提しているが、「超越論的な私」は実在的な意味では存在しない

一般に言われる「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」というものも、超越論的に構成されたものである。超越論的な志向性というのは、普段は意識されないで背後に隠れている「意識の働き」である。従って、「私」や「私の心理」や「私の身体」や「我々」もその「働き」によって構成されて、意識に「現れる(現出する)」ものである。

○超越論的還元は心理学的還元の上に積み上げられたものである

○どんな世界も超越論的な自我にとって相対的であり、超越論化は、世界の括弧入れも、心の括弧入れも、その心に関係する現象学的心理学の括弧入れも要求する

○この括弧入れにより、心は「超越論的な現象」に変わる

○超越論的現象学者は、心理学的な主観性を、超越論的に純粋な主観性に還元(転換)する

○超越論的に純粋な主観性は、世界を妥当しながら、「実在的な心」も客観化する

○世界の統覚、私の心の統覚、知覚体験の統覚、これらは私の志向的生の中で形成されているものである

○超越論哲学者は、意識の世界化(意識を世界の中の実在的なものとしてみること)さえも、断固として差し止める

○それにより超越論的な内的経験は、超越論的に純粋なものとして直観され、果てしない超越論的な存在の場を開く

「超越論的な意識」は、心理を含めて実在性を一切もたないのであり、実在性は構成される相対的なもの(客観化されたもの)となる。

このことを理解すると「第7節」で述べられた循環の問題はクリアになる。

(但し、少し難しい)

(1) 「私の意識」により「世界」が構成される。
(2) しかし、「世界」の中に「私の意識を含んだ私自身」が属する。

ここで、「意識」→「世界」と「世界」→「意識」となり、この問題は循環する。

しかし、(1) の「世界」とは「構成された世界」である。従って、(2) での「世界」の中の「私の中の意識」も「構成された意識(つまり構成された心)」である。上に述べられているように、超越論的な意識の働きは「実在性」をもたず、「構成するもの」である。従って循環問題は解消されていることになる。

少しわかりにくいかも知れないが、次のことが基本になる。意識は、「ノエシス(意識作用、働き)」(A)と「ノエマ(意識相関者)」(B)に区別される。(A)と(B)ははっきりと区別されるのであり、混同してはならない。(1) の「世界」はノエマ側の「構成されたもの」(B)の領域であり、(2) の「私の意識」も「世界」の中にあるので「構成されたもの」(B)の領域である。

循環するとなると、(2) の「私の意識」が(1) の「ノエシス(構成する意識)」と「同一のものである」と捉えることで発生する。こうなると「構成するものと構成されるものが同一になり」論理は循環する。しかし、「構成されたもの」(Bの領域)に「構成する働き」(Aの領域)を含めるのは、超越論的構成の原理(ノエシス-ノエマの原理)に矛盾し、誤りである。

「構成されたもの」はあくまで「構成されたもの」の側にある。例えば、「他者の意識の中で世界が構成されている」ことが私の中で意識され(構成され)ているとしても、それはあくまで、「構成されたもの」の側(Bの領域)で二重な意味としてあるだけである。原理的には「構成されたもの」の側で無限に多重化される。しかし、それはあくまで私の「構成されたものの中でのこと」である。

「構成されたもの」の側では、どこまでも多重な意味として展開されることは可能であり、それは「論理」が無限に展開されていくこととも同じような構造にある。「論理」は閉じたものではなく、論理問題は超越論的主観性(超越論的論理)の考慮が必要である。

上記のことは重要な意味をもち、現象学的還元の根幹であり、哲学問題を解消していく意味を含んでいる(が、理解されにくい)。

超越論的な構成の原理(「ノエシス-ノエマ」「作用(働き)-相関者(相対)」)を基本にしないと、認識論は、根源まで問いつめると、循環問題、パラドックスに追い込まれる。

※私の中で世界は多重化されて構成されるが、次の点に注意が必要である。私の(独我的)世界構成は、「直接の知覚」と「直接の知覚の経験化(過去化、記憶化)したもの」と「経験をもとに想像・推測したもの」など多様な意味をもつが、(私の中で構成される)他者の世界構成は、前の二者(知覚によるもの)は与えられないので、(言葉や振るまいなどからの)推測的なものとして弱い意味しかもたない。

○この超越論的な存在の場は、心理学的な場と平行関係にある

○超越論的-現象学的還元が、心理学的-現象学的還元と平行関係にあるのと同じである

○超越論的自我ならびに超越論的な共同体も、心理学的な私ならびに我々と平行関係にある

○従って、超越論的自己経験は、単なる態度変更により、いつでも心理学的自己経験に変化することができる

○超越論的な経験領野と心理学的な経験領野は、存在意味を相互に内包する関係にある

○超越論的現象学と心理学的現象学も同じ平行関係にあり、両者は暗黙のうちに互いを包含しあっている

○心理的な間主観性も、超越論的に還元されると、平行関係にあるものとして超越論的な間主観性となる

心理の中の共同体も、超越論的な意味での共同体に相互転換できる。

○超越論的な間主観性は、自立した絶対的存在基盤であり、全ての超越的なもの(実在の世界) は、ここから存在意味を汲み出す

○そうした存在意味は、志向的統一体としての存在意味であり、超越論的な意味付与や、調和的な確証、残存し続ける確信の習慣性に由来する

超越論的還元は、まず心理学的還元(心理学的な意味での心への還元)を経て、超越論的に還元されないと、その還元の理由が分かりにくい、とフッサールは考える。

超越物をエポケーして、世界経験や内的経験は「心の領域」で起こっているのだから、それに還元する「心理学的還元」という段階があり、次に、その「心の領域」も「意識の構成的な働き」により生じているのだから、それに還元する「超越論的還元」という段階がくる、ということになる。

しかし、超越論的な思考を理解すると、心理学的還元の段階というのは逆に理解しにくくなる(上記のように更に難解になる)可能性が高く、ここにはあまりこだわる必要はないと思われる。

(現象学的心理学についての考察を深める場合に、上記のことは重要となる)


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