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ブリタニカ草稿(最終稿)第14節 [読解シリーズ]

【普遍的哲学としての現象学】

○根底から、自己の学問により正当化される普遍的学問が、プラトン・デカルト的な意味での学問であり、それが根源的な哲学である

○厳密な体系として進行してきた現象学は、純正な認識全てを包括しようとする根源的な哲学である

○それは、第一哲学としての本質学(形相的現象学、普遍的存在論)と、第二哲学としての事実学に区別される

○第二哲学とは、事実全てについての学問であり、超越論的な意味での間主観性についての学問である

○第一哲学は、第二哲学のための方法的総体であり、第二哲学を基礎づけるときは、第一哲学に立ち戻る


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Joker

>正当化される普遍的学問

根底に「永遠」を持ち、その「永遠」の不滅生のうちに生まれ変わる学問・・・これって、イエス・キリストの出自を記した≪系譜≫の中に名を登記されるようなことと違っているのでしょうか?/この故に、「正当化され」「基礎ずけ」られて、危機から救われるみたいな?

ところが、キリスト教の論争の中で問題とされた「何故、永遠なる者が、時間の中に出現するのか?」「このとき、永遠なる者は、時間の定めに従うことになり、であるならば、永遠なる者であることを止めることによって時間・歴史の中に出現していることにならないだろうか?」みたいな議論もありますね。

≪永遠≫という言葉で、いったい何が意味されているのか?
いったい何が意味されなければならないのか?・・・
「永遠」というものの出現を現象学的に解明して示す必要がありそう・・・
by Joker (2006-07-01 12:57) 

YagiYuki

現象学は「生のアプリオリの発見」なので、フッサールが使うところの「永遠哲学」というのは、根底から基礎づけられたアプリオリなものは「永遠」であるということですね。

ピタゴラスの定理は、誰が発見しても、それ以後「永遠」であるように、そういうアプリオリなものの発見として「永遠哲学」を構想し、それはプラトン~デカルトなどが構想した根底から基礎づけられている「普遍哲学」として現象学を打ち立てていく、ということですが。

フッサールから見れば、永遠でないものはそもそも(基礎)哲学ではない、ということで、それ以外の曖昧なことは極力語るのを避けていましたが、厳格な態度です。

あまり「永遠哲学」「厳密学」としては疑問視されていますが、私は「かなりの成功の部類」であり、比較するものはないと考えています。
by YagiYuki (2006-07-01 16:34) 

Joker

ア・レーテイア(真理)→ア(打ち消し)+レーテー(忘却の河・流れ)ですね。

>プラトン~デカルトなどが構想した根底から基礎づけられている「普遍哲学」

プラトンの「真理」は、イデイン:イデアという志向的相関のうちで動いていたと見なしてもいいかなと思います。そして、フッサール的な「普遍哲学」・「永遠哲学」がこうした知の大地に打ち建てられるとき・・・「真理:アレーテイア」という言葉が本来持っていたはずの「もともとの意味」から微妙にずれる感じはありませんか?

もちろんプラトンの「イデア」には、「想起」という仕方で「忘却の河:レーテー」から閃き出でるものという意味が隠されていたかと思いますが、ラテン期においては、「ア」という真理体験における≪否定性≫は剥離してしまいます。中世スコラ期を経てルネサンスへ・・・「マテシス」と「タクシノミア(体系的分類学)」とが姿を現しました。数学的明証と万学の網羅としての普遍哲学(こういうのはライプニッツかな?)。ただし、ここでは、真理体験におけるあの≪否定的契機≫は依然見失われたままだったと思います。

>「永遠哲学」を構想し、「普遍哲学」として現象学を打ち立てていく・・・

ところが、実証的な諸判断の領野における「真」を根拠付ける「真理」の領野であるところの超越論的主観性の領野、これは、「生のアプリオリの≪発見≫」の領野として、「ア・レーテイア」が本来持っていた≪否定的回帰(還帰)≫の意味を再び回復させるわけですね。ここまでは、分かる・・・

「脱コード」とか小泉首相お気に入りの「脱構築」・・・この「脱(デ)」は、「ア・レーテイア」の「ア」と同じ意味ですね。否定(逃走)であり、破壊です。ここから、「存在論の歴史の≪破壊≫」などといわれて来ますね。ただ、フッサール哲学は、否定・破壊という「真理」という語が持っていた不吉な響きとは裏腹に、≪建築的≫であったような印象を強く受けます。でも、それは、「哲学」がそれと共に在る(フィロ・ソフィア/ソフィアと共に在るという意味ですが→『哲学とは何か』ドゥルーズ+ガタリ)ところの「真理」から「再び身を翻すこと」を暗示するんじゃないでしょうか?・・・とも思ったりもします。

哲学が「終わりなきもの」であるのは、建築の過程が永遠に終了しないかぎりにおいてなのではなく、そうではなくてむしろ「永遠の自己解体・破壊」という≪辛苦≫(メルロー・ポンティ)においてではないでしょうか?/この辺、なかなか判断が難しい問題です。
by Joker (2006-07-04 00:11) 

YagiYuki

ちょっと知識不足もあり、理解できない部分もあるのですが、

>哲学が「終わりなきもの」であるのは、建築の過程が永遠に終了しないかぎりにおいてなのではなく、そうではなくてむしろ「永遠の自己解体・破壊」という≪辛苦≫(メルロー・ポンティ)においてではないでしょうか?

フッサールは建設的で、基礎(本質学)の上に応用(事実学)がいくらでも展開されていくので、発見・(修正)・建築と、極めて「学問」的です。

このフッサール的「建築的」思考に懐疑的なのが、(まだあまり読んでいませんが)ハイデガーからであり、その元にはニーチェがいるのでしょうか。

歴史的には「カント~フッサール」対「ニーチェ~ハイデガー」という構図で、ハイデガー以降は「ニーチェ~ハイデガー」的な流れが中心ということでしょうか。

「哲学が終わりなきもの」としても、意味がそれぞれ違ってきますね。
by YagiYuki (2006-07-04 06:24) 

Joker

(ヘルダーリン-)ニーチェ-バタイユ-アルトー・・・ミシェル・フーコーなどが使い始めた御三方ですが(→『言葉と物』)、ちょっと狂気な系列です(余談)。

一方で、理性から建築される「学」とその歴史。他方で、この歴史から排除された≪狂気の歴史≫といったものが、理性から展開して来たし展開していくであろう知の歴史に「張り付いて一致している」(ドゥルーズ+ガタリ)、もしくは両者が「相互補完的な意味論的場の次元」(レヴィ=ストロース:『仮面の道』)を構成しているとしたら?

学的な「知」を生み出すところの≪理性≫が、いかに迷妄を含んだ≪狂気≫から自身を解き放ち、自身を定立するに至るのか―そこでは当然「知における権力のドラマ」の問題も絡んできますが―こういうダイナミックな展望が現代哲学を現代哲学たらしめている「視線」です。

フッサールがあまり顧みられなくなった背景には、たぶん彼が≪理性≫をしか扱うことのできない哲学者だったからかな、という気がしないでもないですね。これは哲学的センスの問題であると共に、理性の体系を仕上げようとする道がもともとそういう在り方を定めるものだから。

例えば、アルチュセールは、ダイナミックな展望から、以下のように問題を提起しました:「・・・例外が<規則そのもの>ではないかどうかを自問する必要がある。実際、結局のところ、<われわれは常に、例外の中に身を置いている>のではなかろうか? 例外がその規則に照明を与えはしないであろうか?」(『マルクスのために』:矛盾と重層的決定)

つまり、理性の体系が排除する「狂気」なども≪例外≫ですよね。ミシェル・フーコーなどの言う「外の思考」というのも、上記のような恩師アルチュセールの言説を踏襲してのものですね。フッサール的な「超越論的主観性の領野」が根源で人間の営みを支える「理性の領野」であるとするなら、アルチュセールは、さらにその「外」を思考していることになるのかも知れません。ただし、それは、「根源」とはもはや呼ばれることができずに、「根源の彼方」(デリダ)と呼ばれることになるわけでしょうね。
by Joker (2006-07-04 23:47) 

YagiYuki

この問題はかなり重要なのですが、フッサールは「理性以外のものを排除した」ように一般的に捉えられがちですが、そうではありません。それは「事実」の一例に過ぎない、としただけです。

もう少しわかりやすく言うと、「理性」対「狂気・例外」という構図があるように見えますが、「狂気」や「例外」も、「狂気」や「例外」として理性的に捉える以外にない、ということです。決して、「狂気・例外」は理性から外れているのではなく、「狂気・例外」として「理」「イデア」として、我々は捉えているに過ぎません。

誰しも、ある事実、ある例外、ある狂気も「理解しようとするとき」には必ず「理」として捉えています。

例えば「理屈じゃねーんだよ」という言い方があります。しかし、この言葉は「理屈」です。

「規則がないもの」があるとしても、我々は「規則がない」として「理」解します。

そこに神秘や名付けられないものがあるとしても、理解しようとするときには「理」を働かせています。

そして、これらの「事実(例外、狂気、神秘も含めて)」を「学」として展開するときには、「本質論」へ移行する(形相的還元)必要があるということです。

この「事実」と「本質=理念」の概念の区別について、よく理解されなかった、混同されたことにより、現象学以降「混乱し複雑化した哲学」がよく展開されています。

「理性を働かせている」のに「理性を懐疑する」ような論が多いのですが、「灯台もと暗し」です。

そして、このことを理解してもらうのは、なかなか難しいものです。
by YagiYuki (2006-07-05 08:33) 

Joker

アウシュビッツ以降・・・というテーゼ

「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である。」/「不変のものこそが真理であり、動くもの、うつろいゆくものは仮象であるという思考、つまり、時間的なものと永遠なる理念とは相互に無関係であるという思考、このような思考を主張することはもはやできない。」/「この世界の内在的意味を見出す試みそのものを、あの出来事は嘲笑せざるをえなくさせているのである。」(アドルノ)

このアドルノの一連の言説は、「哲学することは、野蛮である」とも解釈できますよね。詩は、偶然性・特殊性という例外を語の秩序の中に配置することによって、それらを一編の≪詩≫として理性化するもの(織り上げるもの)だとも考えられます。すなわち、≪「狂気・例外」は理性から外れているのではなく、「狂気・例外」として「理」「イデア」として、我々は捉えている≫・・・ということですね。

他方で・・・
「ここからの思索は、もはや哲学ではない」(ハイデガー)
Es sind noch Lieder zu singen
jenseits der Menschen.
原詩は、アウシュビッツの詩人パウル・ツェラーンの詩の一節です。彼は、戦後、フライブルク大学で詩を朗読し、ハイデガーとは「同じ一枚の記念写真」(一枚の写真という≪同一性≫の理性的秩序ということなのでしょうが)に収まることを拒否しながらも、トートナウにあるハイデガーの山荘を訪問してもいます。この後、間もなく、セーヌに投身してこの世界から立ち去って行きました。

「詩(思)というものが不可能となる」というのは、語が嗚咽のうちで喉の奥につまり、もはや声とならないことを意味するのであって、「何を言っても白々しい」というような単に嘲笑的な懐疑にさらされる事態のことを意味しているわけではありません。その事態が≪懐疑≫にさらされている程度の事柄であれば、≪「理屈じゃねーんだよ」という言い方があります。しかし、この言葉は「理屈」です。≫という反論も有効ではあります(笑)。けれども、恐らくそれとは本質的に異なる深刻な事情・・・その地平上で、現代哲学は動いていると思いますが。≪「理性を働かせている」のに「理性を懐疑する」ような論が多い≫というわれる「背景に実は何が存在したのか」(それがアウシュビッツだったのですが)を問題にしてこそ、「フッサールが理解されなくなった」理由も判明するかとも思います。

非・理性を可知化することとは、それを可知化する「理性」を生み出していくことであり、それが「哲学」なのだというのは、なるほどその通りですね。指摘される風潮についても分かっているつもりです。そして、このレベルでフッサール的な「理性の復権」を語る分には、問題ないとも思います。非生産的な懐疑に対する「造反有理」ですね。

ただ、「jenseits der Menschen:人間の彼方に」というツェラーンの詩句は、アウシュビッツという「狂気」の絶対的ともいうべき圧倒性を前にして、反対に「理性」の方が呑み込まれてしまう・・・いわば「理性」の消失点に身を投身しながらの探索・詩作を暗示してはいないでしょうか?

>「規則がないもの」があるとしても、我々は「規則がない」として「理」解します。

地球上に実在した「或る地点」においては、≪「規則がない」として「理」解します≫という言説そのものが無意味となります。この無意味さ・・・ツェラーンが「無の詩人」とも呼ばれたゆえんかなと思います。
by Joker (2006-07-05 12:52) 

YagiYuki

フッサール現象学では、個々の事実や事例的なものから共通本質を取り出して、「普遍論」「本質論」として語ります。「普遍」「本質」と堅苦しいことばかりです。

では、個々の事実や事例はどうなるんだ?それを無視してよいのか?というのが疑問として沸きます。

それに対しては、無視してはいないけど、「本質」の部分しか語らないよ。個別の部分は語らないよ。それが「哲学」とフッサールは言います。

だから、第二哲学としての事実学についても、事実(経験的なもの)に関しての「本質論」となります。

ここまではいいとして、では、

「ここからの思索は、もはや哲学ではない」
「「詩(思)というものが不可能となる」というのは、語が嗚咽のうちで喉の奥につまり、もはや声とならないことを意味する」
「背景に実は何が存在したのか」
「「理性」の消失点に身を投身しながらの探索・詩作」
「地球上に実在した「或る地点」においては、≪「規則がない」として「理」解します≫という言説そのものが無意味となります」

こういうものを哲学は無視していいのか?
「普遍」「本質」ばかりで哲学はいいのか?
という疑問が起こってきます。

これについては、何で現象学は「普遍」「本質」ばかりなのか?という問いについて答えないといけません。

次のように回答すればいいでしょうか?

我々は、何もかも理解している訳ではありません。「私の身体の内部(細胞分裂、血の流れなど)」「世界」「地球の中味」で何が起こっているのか全部は知りようもありません。我々が知っているのは、ある観点、視点で私が(あるいは他者を通じて)「見た」「理解した」ことでしかありません。

それを全部理解しようとするのは、「客観」を全理解しようとする欲望であり、「無限なものの理解への野望」だと思います。

「言葉にならないもの」「理解できないもの」は無限にあります。
(目の前のカーテンを正確に言葉にはできません。ある観点で言えるだけです。)

「言葉にならないもの」を言葉にしようとすると、言葉は詰まるし、何とでも言えてしまい、何を言ってもそれが「そうだ」とも言えません。

「語りえぬもの」「語っても怪しいもの」を語らないとして、「知的理解できるもの」だけを語る。そして、個々の人や事例にだけ妥当するのでは「学問」にならないので、誰にでもいつでも妥当する「普遍」「本質」を目指す、それが学問である。

こういう解答でどうでしょうか?
これでOKとは思わないのですが、6~7割くらいのデキだと思います。
by YagiYuki (2006-07-05 17:38) 

Joker

フッサールの「ペーパーナイフの回想」・・・

確か、晩年のフッサールが少年時代を回想しながら・・・自分は、プレゼントに貰ったペーパーナイフがよく切れない気がしたので、ナイフを研ぎ始め、もっとよく研げば、もっとよく切れるようになるだろうと・・・しかし、研ぐことでしだいにナイフそのものが痩せ細り、ペーパーナイフがすっかりダメになってしまっていたことに気付かなかったのだった、みたいな話です。

ブリタニカの頃の自信満々なフッサールには、「灯台下暗し」みたいなところがあり、フロイトとも奇妙に類似していて、有能な弟子たちが訪れては立ち去って行った。そして、立ち去って行った弟子たちとの関係は≪破門≫に近いものであったように思います(フッサール側からの視点において)。

フッサールの「ペーパーナイフの回想」は、さまざまに解釈され得るものですけれど、たぶん「ペーパーナイフ」というのは・・・フッサール自身、そして彼の言うところの「学問」そのものだったのではないかなと思われたりするのですが、どうでしょうか?/「超越論的還元がどこまで行っても終了しないで自滅しちゃうのだ」みたいな解釈は、どう考えても与太話っぽいので論外として。

晩年のフッサールには、自分が追い求めて来た「学問」が≪何を意味するつもりであったのか≫、≪何の意味があったのか≫・・・「一歩控えた自己省察」みたいなものが働いていたのではなかったのでしょうか?

「それが学問である」という回答は、「語りえぬもの/根拠なき信念」(ウィトゲンシュタイン)という問い合わせていた事柄の≪意味≫についての回答になっていません。
by Joker (2006-07-06 00:05) 

YagiYuki

「語りえぬもの/根拠なき信念」の「意味」ということですが、

もし「語りえぬもの」に意味があるなら、「意味として語りえる」
もし「語りえぬもの」に意味がないなら、「これは意味がないのだからしょうがない」
もし「語りえぬもの」に意味が不確実なら「意味が不確実と語るよりしょうがない」

「しょうがない」では「しょうがない」のですが、それは「しょうがない」としないと知としてまずくなる。

一切が我々が目覚めたときの現象でしかないなら、「語る」のはその現象の中の「意味」の部分でしかなく、それ以外の流れる現象は「それぞれの現象」でしかない。

ただ、そこで思考停止があるのではなく、「意味」として「語る志向」はいつも残されている。「意味は完成形があるのではなく、無限に洞察される可能性があり、開かれたまま」ということではないでしょうか。

フッサールにとって哲学(現象学)は他の学のための「基礎原理の提供」で、それ以上は「他の学問の役割」か「現象学の役割ではない」としています。他の哲学者とは求める範囲がやや違う(デカルト~カントの流れにありますが、その中でも原理主義的)のではないでしょうか。
by YagiYuki (2006-07-06 11:37) 

YagiYuki

「意味(あるいは本質)」の次元と「事実・現象」の次元は違い、「語る」のは「意味の次元」です。

この「意味(本質)」と「事実」の次元の違い、という問題がここにはあると思います。
by YagiYuki (2006-07-06 11:54) 

Joker

≪語り得ぬもの≫も、一見、対象ですよね。
ということは、≪語り得ぬもの≫は、対象として構成されているはずですよね。現象学は、「諸対象の構成」のメカニズムと、その構成の領野において、その≪語り得ぬもの≫が本来何を意味していたかを「知っている」のでなければならないですよね。この「知っている」こと、この≪知≫を示すことが、任務なのではないでしょうか?

さてデカルトの方法的省察において、「かりに欺く霊が巧妙にわたしを欺いていたとしても、欺かれるわたしというものが≪存在する≫のでなければならない」。この「われ在り」は、根源の≪信≫ですよね。そして、この≪信≫は、それ以上遡って根拠付けられはしない。その≪信≫は、いっさいを根拠付ける≪信≫だからですよね。そして、この≪信≫は、かかる理由に基づいて「語り得ぬもの」であるわけですよね。また、それは、「対象ではなかったのだ」ということが判明して来ます。

以上、とりあえず、論証(語り得ぬものが何を意味しているかの説明)、終りです。これが、たぶん、ハイデガーなんだろうと思いますが、分かりやすいです。
by Joker (2006-07-06 13:23) 

YagiYuki

「意識一般の特徴は、変化に富む波動作用であるということであり、何らかの形相的具体物や、その具体物を直接構成する契機などを、概念的に精密に確定するなどということが問題ではない」

「個物を個物たらしめている要素を、現象学は捨て去る」

「しかし本質内実ならばその全部を、その具体化の充実において、形相的意識の中へと高めて引き上げ、その本質内実を、理念的同一的な本質として受け取る」

「流れ行く具体物に対しては、どんな具体物であれ、概念的かつ術語的な確定化などは考えられないのであり、しかも、具体物の持つ流れ行く直接的な部分や、抽象的契機のどれに関ても、当てはまる」

「このように、形相的単独態の一義的規定ということは、全く問題にならないが、一方、高次の段階の種的特殊性を具えた本質については、事情は全く異なる」

「これらの本質に対しては、確固たる区別、同一化の貫徹、厳密な概念的把捉を施しうるし、その本質の構成要素をなす本質を分析することもなしうる」

「従ってこれらの本質に対しては、包括的な学問的記述という課題が、有意味に樹てられうる」

「我々が記述し、厳密な概念において規定してゆくものは、知覚一般の類的本質であり、それに下属する、物理的事物性の知覚とか、生きものを知覚する場合とかの、種々の場合の類的本質であり、同様に、想起一般、感情移入一般、意欲一般等々の、類的本質である」

(以上、イデーンI 第75節)

現象学で「知」とは、この「本質」「(ノエマ的)意味」のことで、意識を流れる現象・事実は捨て去られます。この「流れる現象」から「本質」を「観てとる」のが現象学の「知」です。

だから「語り得ぬ事実」は捨てられて、「語り得る本質部分」だけ記述します。「事実から本質への移行」が「形相的還元」です。

>この≪信≫は、かかる理由に基づいて「語り得ぬもの」であるわけですよね。また、それは、「対象ではなかったのだ」ということが判明して来ます

デカルトの「我あり」は確か「実体として考える私がある」ということで、フッサールの場合は「実体的なもの」があるというよりも「自我の働き、志向的働きがあり」となり「観念的な我」といえます。

だからデカルト的「存在としての我」は我を「実体の部分」としてしまったために、≪信≫「語り得ぬもの」と言われるものかも知れませんが、フッサール的「志向的な我」は観念的「本質」として「語り得る」ものです。

フッサール的「我あり」は意識を反省して、ここに「自我意識が働いている」ということを理解するので、「自我」という「本質」は対象として把握されています。

実体は全て「志向的-相関対象」としないと、≪信≫「語り得ぬもの」となるのではないでしょうか?

そしてこの問題はやはり先の「フッサールとハイデガーの対立問題」に繋がっていってしまいます。振り出しに戻ったようです。
by YagiYuki (2006-07-06 16:25) 

Joker

>フッサールの場合は・・・「観念的な我」といえます。
これは、そうでしょうね。

>コギト・エルゴ・スムから
デカルトの『方法序説』や『省察』などで第一の原理に置かれる「コギト・エルゴ・スム」。「・・・であるならば、・・・であるのでなければならない」(経験的事象から事象の本質へ→形相的還元)/これは、「われ在り」が、「われ思考す」から推論されているのであって、「実体であるようなもの」ではないですよね。「われ思考す」によって初めて成り立つような「われ在り」ですよね。しかし、「われ在り」だからこそ、「われ思考す」が可能となると切り返すわけにはいかない。「われ在り」が論証されるのは、「われ思考す」によってだからです。だから、「われ在り」というのは、それを疑えないとしても、「われ思考す」から「遡及的に推論されたもの」でしかない。したがって、「そうだ」という確≪信≫でしかない。すなわち、フッサールの言う通り「観念的な我」です。でも、それが「無い」だと困るので、「底に置かれたもの:ヒポケイメノン」でしょうか。

ところが、「切り返し」が起こるわけです。≪「われ在り」だからこそ、「われ思考す」が可能となる≫という。「主体」というものが誕生する瞬間ですね。「わたし」は一切の思考・行動の「主体」である、といった宣言。この「主体」は、一切の思考・行動の原理的「根拠」として、責任の所在をも明示します。でも、本当は「いる(在る)/いない(無い)」だ。それは、双子。したがって、≪信≫は、それが「語り得るもの」であるとしても、その不在の側面においては、「語り得ぬもの」となります。「いない者をいるかのようにを語る」ことは、教会が神について語るに等しいから。

「わたし」の不在的部面/経験的実在性を容認する他方で、超越論的観念性として定立されます。これは、カント以来、そうですね。何か、用語で戸惑ってしまうみたいなので・・・ウィトゲンシュタインの用語を使ったので、困惑させてしまったかなと思います。取り出して使用した時点で、用法的な意味も領域横断的に変えてしまいましたが。

ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の方、ご存知ですか?/夢の中で世界を構成する理性としての「赤の王様」にひっかかっています。アリスと双子が寝ている赤の王様について会話するやりとりが絶妙なので。「世界」の存在の超越論的観念性の暴露が、カントの『純粋理性批判』とリンクしている気がします。興味を覚えたら、考察を施すのもいいかなと思います。
by Joker (2006-07-07 01:36) 

YagiYuki

>デカルトの・・・「われ在り」が、「われ思考す」から推論されている
>「われ思考す」から「遡及的に推論されたもの」でしかない

これはそうですね。

>ところが、「切り返し」が起こるわけです。≪「われ在り」だからこそ、「われ思考す」が可能となる≫という。「主体」というものが誕生する瞬間ですね。「わたし」は一切の思考・行動の「主体」である、といった宣言。この「主体」は、一切の思考・行動の原理的「根拠」として、責任の所在をも明示します

しかし、やはりこれはハイデガー的な考えですね。どうしても「ハイデガーとフッサールの対立問題」になってしまいます。

本ブログでにおいて、ある程度は書いていますが、いずれもう少し掘り下げてこの問題を扱ってみたいと思います。なかなか納得得られないと思いますが、「明示された」と思う所までは進み、具体的な反論が得られればいいと思います。

>ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』の方、ご存知ですか?

すいません。私は文学に疎く、知識・教養は乏しいのです。(元?)技術屋さんなのです。
by YagiYuki (2006-07-07 07:30) 

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