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現象学的還元とは? [フッサール現象学]

現象学は全て現象学的還元を出発点として考察が行われます。従って、現象学の理解は、何故「現象学的還元が遂行されないといけないのか」「現象学的還元とは何か」から始まります。

しかし、現象学は普通に生きている上で誰もがもっている「自然な見方という固定概念」を完全に打破しないと迷路に入りやすく、「現象学的態度と判断中止は、人格の変化を起こす力さえあり、宗教的回心とも比べられる」(危機 第35節)と言うように、徹底した自己懐疑と反省的直観を必要とします。フッサールのこの言葉を聞くと神秘的な印象さえ受けるのですが、そうではなく、生きていく中で、何らかの思考上の要請がないとなかなか実感として理解できないということです。実感がないと、現象学はただ難解なだけの言葉のカタログになりかねません。

「現象学」「現象学的還元」について何種類かの説明で追っていきたいと思います。

【目の前のパソコンの存在】

「目の前にパソコンがある」ということから始めます。

目の前にパソコンがある場合、このパソコンの存在を疑う人はいません。無理に疑うことは可能ですが、存在を疑えても、パソコの知覚が意識の中にあることは疑えません。

(1)パソコンを100m先に移してみる

そうすると、パソコンの存在確信は揺らぎ、例えば誰かがふと目を離した隙に「パソコンの写真」と入れ替えても、それに気づかないこともある。従って「存在する」とは、絶対的なものではなく、知覚から与えられる確信性の強さに依存することがわかる。

(2)目を閉じる

視覚による確信は失われ、記憶と再想起による「パソコンは目の前にあるはず」という弱い確信に移る。ここで誰かがそっとパソコンを移動しても、私はその弱い確信を抱き続ける。従って、知覚による確信こそが「最も強い確信性」を私に与える。

目を閉じた場合、触覚により「パソコンの存在」を確かめ、感覚が得られれば強い確信を与えるが、「パソコンの形をした物」が置いてあってもパソコンと確信してしまう。従って、視覚と触覚では与える情報の質が異なる。

(3) 眠る

「存在確信」自体が起こらない。これは目を開けたまま眠っても同じである。従って、「存在する」とは、意識のはっきりした状態で意識の統覚、把握作用により行われていることがわかる。

従って、「存在する」とはあくまで人間の状態に依存し、その条件として、「目覚めた意識がある」ということが絶対条件であり、存在確信の強さとしては、知覚(視覚、触覚、聴覚など)が最も強い原的確信を与え、視覚と触覚、聴覚ではその(構成される)質が異なる。

「目の前にパソコンがある」というのは「目の前にパソコンがあると私は確信している」ということであり、現象学は物があるという確信は何故生じるのかと問い直す。「○○があるのは当たり前である」というのは自然な見方(自然的態度)であるが、「○○があるのは当たり前、と私が感じるのはいかなる理由か」というのが哲学的な見方である。

【経験思考の破棄】

我々の思考は経験の蓄積により様々な考えが既に織り込まれています。基本的に全ての人がこの織り込まれ、蓄積された考え(経験的確信、経験的理論)を基準にして物事を判断しています。しかし、「その前提から学問を哲学を出発して本当にいいのか?」ということが問題になる。我々はただ単に経験しているだけであり、経験から思考した場合、その前提となる経験的思考に問題があれば、そこからどこまで考えていってもその思考は全て問題となる。誤った出発点からは、誤った結論しか出てこない。

【元へ還る】

現象学的還元は文字通り、「現象学的に」「元へ還る」わけです。例えば、物が目の前にあるとしても、「物を見ているという意識が働いている」と「意識の働き」の元へ還るわけです。「元へ還る」には「働き」そのものへと目差しを向け変え(反省)、全てが起こっている働きの現場(超越論的主観)を直視し、それ以外の「客観構成されたもの」「蓄積された概念」を全て判断保留(エポケー)します。そうすると全ての事態(事象)はこの現場にあるというのが、よく考慮すると見えてくるはずです。

【意識の本質構造を解明する】

「世界」も「事物」も「他者」も、そして「私」も「私の存在」も、全て「○○についての意識」であり「私の意識の働きによる現れ」でしかない。ならば「意識の働きに還元できる」のであり「意識の働きの本質構造を解明すれば、全ては解かれうる」ということです。自然な態度では隠れている「意識の働き」と対峙するのが「現象学的還元(超越論的還元)」という態度変更であり、その還元により全ては、超越論的主観の世界として描かれ、どこまで客観性を高めようとそれは経験、間主観性としての確信の世界であることが顕わになる。

意識の働きを自我のベクトルのようなものだとすると、自然な態度では、我々はベクトルによって生み出された「結果」をそのまま(疑いなく)受けとっている。しかし、「結果」だけを見るのではなく、ベクトルがどういう風に働いてその結果が生み出されているのかを洞察する。「ベクトル-結果」という構図があるとすると、結果を「一切前提せず」、つまり世界や事物や私の身体や私や価値という「結果」を何も前提せず、ベクトルの方から洞察していき、その末にどう「世界や事物などの結果」が構成され、信憑されているかという構図を明らかにする。

【私の視点に引き戻す】

我々は自然な態度では「私の視点」と「他者の視点」と「超越視点(客観視点、神の視点)」と「相互主観的な視点」を混在して語っています。しかし、後の三つの視点は、実は私の意識によって構成されたものに過ぎません。従って、後の三つは「私によって構成された他者の視点」「私によって構成された超越視点」「私によって構成された相互主観的な視点」であり、「私の視点」に引き戻すのが現象学的還元の役割とも言えます。

【形相的還元】

現象学的還元は形相的還元も役割としてもつ。形相的還元とは簡単に言えば、「理念化(一般抽象化)」することである。文字通り「形相=本質=理念」へ「還元する」ことである。偶然の個別の流動する心理的な現象、事実から、共通的な普遍的な「本質」「理念」をみてとることである。現象学の記述は、その理念の記述であり、何度反復してもその理念を言い当てているよう言語により確定していく。

【間主観的還元】

私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」という。しかしその本質法則は他者にも妥当するものであるか不明であり、他者も(超越論的)世界の中で妥当させたままの還元を「間主観的還元」という。それにより、個人的な本質法則は、間主観的な普遍的な本質法則(を目指したもの)として示される。

他者の本質法則、あるいは間主観的、普遍的な本質法則など理解できるのか、という疑問がある。しかし、我々は他者経験、言語を通じて、他者との共通性と異質性、他者同士の共通性と異質性を同時に経験しているのであり、本質法則を普遍的なものとして高めていくことは可能である。

例えば、他者と私、他者同士で、もし視覚に何ら共通性がないなら、他者の行動というのは全て不可思議極まりないはずである。とても同一世界に生きているとは思えないはずである。他者経験は、私の超越論的世界の中で、他者と私と共通の世界の経験として間主観的に妥当している。

よって、間主観的還元は二つの意味を持つものであり、一つは「自我」と「他我」に共通する普遍的な自我の構造を理解しようとする側面と、もう一つは他者と共に共同体の中にいる私ということを理解する側面である。

形相的還元と間主観的還元は、互いに分離したものではなく、見方が異なるだけである。

【現象学的還元によって何が得られるのか?】

現象学は人間に共通する「生(自我)のアプリオリ」の解明である。それを解明することにより、様々な哲学や思想や宗教の対立が、何故対立するのか根本から明らかになる。対立は全て「自我の本質構造、超越論的構造」の理解不足によるものである。

現象学はそれらの考えを全て否定しようとするものではなく、それが独断的なものであるならば、それが見えるようにただ用意されたものであり、根源へ辿れるように哲学として準備されたものである。事実現象(個々の複雑な現実問題)を解決するような万能の薬ではないが、理念的(普遍的、本質的)問題(つまり、いつでも、どこでも、誰でもという問題)として扱うとき背理に陥らずに見通すことができる一つの道筋である。

現象学は洞察するだけであり、創造せず、いわば無思想的である。数学が思想をもたないのと同様である。


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Joker

哲学と生の隠された合目的性・・・

「普通の知性(悟性)の内密の判断を明らかにすることが哲学者の仕事である」と言ったカントの言葉が想起されます。この「内密の判断」=「アプリオリな判断」の領域を明らかにする(示し続ける)という意味で、今日も、現象学がその任を背負っていると思います。

経験に先立って作動している「内密の判断」の領域、諸対象が現象として構成される場所、したがって現象の故郷でもある大地すなわち超越論的主観性の領野・・・は、何故、存在するのだろうか、と考えたりします。超越論的主観性が「時間性(時間なるもの)」でもあるなら、ここから「歴史」も生起して来るということにもなるでしょうか。

この「歴史」に関わろうとする≪意志≫が、フッサールにおいて、「哲学の任務(使命)」の名のもとに存在していたかとも思います。生に絡みつく「ニヒリズム」と「アマノジャク」の脇に外れ傍らに延びる一筋の「道」をひたすら辿ったその歩みに、「生の秘められた目的性=祈念」の洞察を思います。それは「普遍性」の彼方に位置し、この観念に意味を与えているものでもあるでしょうか。

科学が、「学問」と言うとき、また「普遍性」だの「客観性」だのと言うとき、これらの概念の故郷については、ほとんど知っていないし、知ろうともしていないのかも知れません。灯台の灯が照らし出す諸対象にばかり気を取られ、この「光」なる灯台が、何故、存在するのか、と問うことを忘れてしまっているのかも知れません。

かなり拝見しましたが、これからどう展開されるのか、また拝見させて頂きます。最近、超越論的哲学が劣勢な風潮にありますが、とにかくこの哲学を継承する者の一人としてやっていくつもりです。よろしく!
by Joker (2006-06-23 00:13) 

YagiYuki

まだ全般的には見ていないのですが、哲学は本当に乱立していて、フッサール現象学も不思議な位置にあります。しかしいろいろな本を読んでも、やはりフッサールの手が背後に伸び広がっているのを目の当たりにします。

>超越論的主観性の領野・・・は、何故、存在するのだろうか

全ての秘密の元はここにあるのですが、「知としての理解」の前に人は倒れがちです。膨大な発見を通じて、この領野は「どの程度まで」明らかになるのか、難しいところです。ここには多くの困難があり、何が困難なのか理解するのも難かしく、しかし困難=不可能とする懐疑論ではどうしようもありません。

>フッサールにおいて、「哲学の任務(使命)」名のもとに

「哲学の要求」を聞き取り答えられるのが哲学者でしょうか。哲学は何でもありなだけに、自分の都合のいい方向に思考を進めがちです。

>科学が、「学問」と言うとき、・・・これらの概念の故郷については、ほとんど知っていないし

物理学も、その故郷を知らず、主観性を無視すると、いつまでもパラドックスにつきまとわれます。
by YagiYuki (2006-06-23 16:59) 

もーらむ

素人です。ことば を使って、現象学的還元できるの?情緒性の少ない ことば で行うんだろうか?二進法世界ではあるまい。むしろ たとえば、異文化の民衆音楽に溶け込むなどの文化衝撃に、還元しようとするヒトが耐えられるか、試してからでも、論じるのは遅くないのでは?でもドイツ語の思考枠からどうやって越えるのかな。ハイデガーも晩年ふさぎこんでたみたいですが。
by もーらむ (2014-02-01 22:39) 

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