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ハイデガーのフッサール批判(2)「他我論」 [ハイデガー]

「デカルト的省察」第5省察や「イデーンII」に見られるようにフッサールの他者経験の説明は、自分の身体との類比から他者が考えられ、「感情移入、自己移入」として他者経験が示されます。そして、他我は、自我との類比による転移という形で説明されます。

しかし、この説明は多くの難点を含みます。例えば、

・動物、虫(例えばミミズ)などの他我経験はどう説明するのか?自分の身体との類比では説明し難い

・他者の身体というのは、あくまで私からは「外面的なもの」を直観して捉えられる。しかし私の身体は、「外面的なもの」として直接見えるのは部分的であり、全体は直観でなく「客観構成されたものとして」捉えられる。例えば、私の身体の外面を全く経験しない状況(生まれながらにして身体が麻痺状態で、ある方向しか見えない場合など)でも、「他者、他我」経験は存在すると言えるはずである。そして、「他我」が他者の身体から経験されるのに対して、「自我」は自己意識を反省的に直観して捉えられるなど、「他我」と「自我」は同列には扱えない

・他我は身体が見えなくても「声」だけでも経験される

等という問題が残り、フッサールの説明は失敗しています。

但し、他者経験に対して感情移入、自己移入という側面が全くないとは言えず、そういう面も確かにあり、それで全てを説明するところに無理があります。

では、我々は、他我をどう経験しているのでしょうか?

[ケース1]
熊の着ぐるみが立っている。じっとしていて動かない。
このとき、他我は確信されません。人間が入っているかどうかという推測は行われますが、熊の着ぐるみが襲ってくるなど、動作を始めたときに、他我確信は生じます。

[ケース2]
ハエが飛んでいる。
他我は確信されますが、ここで注意したいのは、どういう状況か?ということです。まず、視覚だけでハエを見た場合でも他我確信されます。次に目を閉じて聴覚だけで羽根の音を聞く場合も、他我確信されます。そして目を閉じて、音を立てずに、ハエが私の腕を動く場合でも、これも(やや弱いですが)他我確信が生じるといえます。

[ケース3]
100年後の高性能AIBO犬が、見た目も動作も全く普通の犬と変わらない場合。
ロボットと聞いていなければ、「普通の犬」と見るので、他我確信は生じます。

[ケース4]
見えていないが、隣の部屋から「声がした」場合。
これも他我確信は生じます。

[ケース5]
目の前を歩いていた人が、車に跳ね飛ばされて、ピクリとも動かなくなった。
「意識を失った」と確信されます。

これを見てもわかるように、「他我」経験、確信というのは、動物の「自律的な運動」「声」を視覚、聴覚、触覚で私が感じたときに生じます。

では何故、そのような確信が生じるのか?
それは、動物の「自律的な運動」「声」を通じて「生」が本質直観されているのです。

「自我論的な生の本質である志向性」(危機 第20節)
「意識とは途絶えることのない生成である」(受動的綜合の分析 第48節)

つまり、「自我」とは「生の本質」であり、「他我」も「自律的な運動」「声」を通じて、「生の本質」を直観しているということです。

「自我意識の働き」が外面として表れる部分に、「自律的な運動」「声」がある。それが表現となり、他者がそれを「知覚」すると、「生を本質直観」「他我を直観」させるということです。

フッサールは「自我」は「生の本質」であることを理解していましたが、何により「他我」を直観するのかという所で躓いたようです。

「自我=生の本質」は、比喩的に説明すると、「志向する、欲する」能動的ベクトルと「与えられる、感じる」受動的なベクトルの時間的(連続的・過程的)なものである、とも言えると思います。

フッサールの言うように、「事物」が存在妥当、存在確信に過ぎないように、「他我」も確信に過ぎません。基本的に他我も錯覚することや度合いがあるということです。そして、自我が「内在」として疑いえないものであるのに対し、他我は「超越」としてあります。


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